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野口英世博士のあれこれ

野口英世博士の生涯については、数多くの伝記で伝えられていますが、ここでは、博士に関してあまり世の中に知られていないことを「野口英世博士のあれこれ」としてまとめてみました。
これは、2003年9月に日本銀行福島支店において、野口英世記念館の八子弥寿男館長をお招きし、ご講演を頂いた中から抜粋したものです。

博士と写真

博士が初めて写真に写ったのは左手の手術を終え退院した帰り

<野口英世記念館提供>

正面より右の人物が野口英世博士

同左の人物は親友の八子弥寿平氏(八子館長の祖父)

博士は明治初期生まれ(1876年/明治9年)の人物としては、生涯にわたり数多くの写真が現存していると言われています。そうした数多く残る博士の写真の中で最も古いものは、1892年10月に博士が会津若松の会陽医院で左手の手術を終え、退院した帰りに親友の八子弥寿平氏(八子館長の祖父)と一緒に撮影したものです(これは、野口英世記念館に展示されています)。当時、写真は非常に高価なものであったため、貧しかった博士が写真を撮る機会はなく、手術を無事終えたことの記念として撮ったこの写真が初めてのものとなります。

博士の左手は手術しても完全に自由になったわけではなく、「手は指あって尊しとす 指は節あって全うしとす」(=手は指があってこそありがたいものであり 指は節があってこそ完全なものだ)という13歳の時に記した左手を意識する気持ちは生涯消え去ることはありませんでした。そのため、博士は写真を撮るときに、左手が写らないようにしていたようですが、博士の人生をみていると、そうした左手を常に意識していた気持ちが、博士の偉大な功績に繋がる原動力となったようで、人生とは分からないものです。

新千円札に使用される博士の肖像の写真は、博士のお気に入りの写真

<野口英世記念館提供>

新しい千円札の肖像が博士に決まりましたが、この新千円札に使用される博士の肖像の写真は、1918年に中南米のエクアドルで黄熱病の病原体を発見した頃に撮影されたものです。この頃が、博士が研究者として最も脂がのっていた時期で、博士自身、知人へ写真を送る際に、好んでこの写真を使い、そこには直筆のサインをしていたそうです。

博士の少年時代

博士は相撲が強かった

博士は子供の頃、相撲が滅法強かったそうです。生来、負けん気が強かったこともありますが、火傷をした左手を上手く使い、相撲でいう「おっつけ」(注)が得意だったそうです。子供の頃は、もちろん学業にも熱心でありましたが、友達と一緒に騒ぐことも大好きだったようです。

(注)おっつけ:相撲の技の一つ。自分の脇の下に差し入れられた相手の手を外側から抑え、自分の脇を固め、下から相手の手を押し付けて攻撃に転じる技。

博士は学校の先生になりたかった

博士は野口家の長男でした。因みに、兄弟にはお姉さんと弟がいました。当時は、長男が家業(農業)を継ぐのが一般的でしたが、左手を火傷したため、力作業が伴う農業を諦めたそうです。博士は、幼少の頃から頭が良く、太陽の位置をみただけで時刻が分かったといいます。当時は尋常小学校での4年間が一般的に受ける教育であり、その上級学校である高等小学校には、経済的に余裕のある子供しか進学出来ませんでした。しかし、博士の場合は、その才能を見込んだ恩師である小林栄先生のすすめで猪苗代高等小学校に入学しました。当時博士は、小林栄先生に憧れ、「自分も学校の先生になりたい」との思いで一生懸命勉強したそうです。

お母さんの深い愛

博士の偉大な功績は、博士自身の努力はもちろんのこと、少年時代における、お母さん(シカ)の深い愛も大きく影響しています。
お母さんは、「自分の不注意で左手を火傷させてしまった」という慙愧の念を持ち続けていました。そのため、「左手の火傷のため、この子は家業(農業)を継ぐことは出来ないのだから、何としても学問で身を立てさせてやらなければならない」と決意し、自らが人の何倍も働くことにより、博士を家事から遠ざけ、勉強に集中させました。当時は一般的に、子供であっても一家の貴重な労働力と考えられており、博士を家事から遠ざけるお母さんの配慮を、周りでは良く言わない声がありました。しかし、お母さんはそうした声に耐え、博士が勉強しやすい環境を与え続けました。また、勉強が思うように進まず、弱音を吐く博士に対し、「学問で身を立てなければお前は生きていくことが出来ないのだよ」とやさしく言い聞かせ続けたそうです。そうしたお母さんの気持ちを汲み取った博士は、その期待に応えようと努力し続けました。その努力が博士の偉大な功績に繋がったことは明らかであり、お母さんの深い愛あっての博士なのです。

会津若松時代

けた外れの集中力

博士は左手の手術がきっかけで、医師になる決意を固め、高等小学校を卒業した後、左手の手術を受けた会津若松の会陽医院に薬局生として入門しました。博士は会陽医院で医学のほか、英語・ドイツ語・フランス語の勉強をしましたが、並外れた集中力を発揮し、1つの言語の原書を3ヶ月で読めるようになったそうです。博士は、一度引いた語彙は全て覚え、二度と同じ語彙を引くことはなかったそうです。また、医術開業試験に合格した後、中国(当時は「清」)でペストが発生したことから、博士も医師団の一員として派遣されましたが、中国への8日間の船旅の中で、博士は、中国人の船員と手真似を交えて世間話をしているうちに、簡単な日常会話をマスターしてしまったという逸話も残っています。
こうした「けた外れの集中力」が、難関と言われていた医術開業試験を1回の受験で合格したことに役立ったのでしょう。

会陽医院の渡部院長からの厚い信任

会陽医院の渡部院長は、1894年、日清戦争に軍医として従軍しましたが、博士は渡部院長に日頃の生真面目さを買われ、会陽医院の留守を守ることを命じられ、また渡部家の家計まで任されました。留守中、患者の診療を行なうことはありませんでしたが、お金のやり繰り等色々と悩まされることが多かったそうです。しかし、博士はお金の出入りを細大漏らさずしっかりと記録し、渡部院長が帰国した際に大いに驚かれたという逸話が残っています。

東京修行時代

研究者を目指した理由

晴れて医術開業試験に合格した博士ですが、左手が不自由であったことから触診に苦労したそうです。また、医学を更に極めてみたいという向学心から、一般の開業医ではなく、研究者として身を立てる決意を固めたそうです。

ロックフェラー医学研究所時代

博士は1日3時間しか眠らなかった

ナポレオンが1日3時間しか眠らなかった話は有名ですが、博士も「ナポレオンに出来たのだから、私も必ず出来る」と宣言し、1日3時間しか眠らなかったそうです。博士が、アメリカのロックフェラー医学研究所で研究をしていた時、博士のあまりの熱心さに「日本人は2日に1度しか眠らなくても済む」と噂されたほどです。博士が研究に没頭していたということもありますが、1日3時間熟睡すれば十分体力が保てる体質だったのではないかとも思われます。

博士のお墓はアメリカにある

博士は、アフリカで黄熱病に感染し亡くなられましたが、遺体は、ニューヨーク郊外にあるウッドローン墓地に埋葬されています。本来ならば、伝染病で亡くなられた博士の遺体をアメリカ本土に持ち込むことは非常に難しいことでしたが、博士を深く敬愛していたロックフェラー医学研究所の人々の尽力により、アメリカでの埋葬が実現しました。因みに、ロックフェラー医学研究所図書館の閲覧室には、胸像が2つ飾られています。1つは創始者であるロックフェラー1世、もう1つは博士です。機会があれば、一度訪れてみて下さい。

博士の趣味

博士は器用に何でもこなした

博士の生活は、ほとんど研究一辺倒という生活にみられがちですが、なかなか多趣味の人でした。人に頼まれた場合等には、俳句や短歌を詠んだり、墨跡を残したり、油絵を描いたりと、器用に何でもこなしたそうです。ここで博士が詠まれたものをご紹介します。

「まて己(おのれ) 咲かで散りなば 何が梅」
(=野口英世よ 出世しなくて何が野口英世だ 俺は何が何でも成功してやる)。

これは、東京修行時代、順天堂医院に助手として勤務していた際、俺は絶対にやり遂げるんだという強い気持ちを詠んだものです。この俳句にも現れているように、博士は意思が相当強かったようです。医学の道を志し、上京の際に生家の柱に刻んだ「志を得ざれば再び此地を踏まず」(=目標が達成出来なければ、決して故郷には帰らない)との決意文にも、博士の意思の強さが現れています。

「夏の夜に 飛び去る流星 誰か之を追ふものぞ 君よ快活に 世を送り給え」
(=夏の夜空に飛び去る流星のように私から離れていったあなたを決して追いかけはしません どうかあなた元気にお過ごし下さい)。

これは東京修行時代の失恋の心を詠んだものです。博士は、会津若松時代から想いを寄せていた女性がいましたが、その想いは残念ながら実りませんでした。この様に、博士は自分の強い意志を詠むことだけでなく、ロマンチックな心も詠んでいました。

以  上

野口英世博士の生い立ち