戦争真っ只中でのスタートであったため、正に日々命懸けの勤務であったようです。当時の記録をみると、昭和19年10月の沖縄大空襲後の善後措置と指導のため、職員2名が軍艦室戸で沖縄に向かう途中、敵潜水艦の魚雷を被弾し奄美大島沖で沈没しましたが、2名とも何とか無事救助され、名瀬市に避難したと記されています。また、昭和20年6月17日夜半の鹿児島市大空襲のときは、当店にも三十数発の焼夷弾が命中しました。当日宿直していた9名の職員は灼熱身を焦がさんばかりの中で、何回も防火用貯水池に飛び込み全身を濡らしながら、決死の覚悟で消火活動に当り、全てを鎮火させたそうです。その後は終戦までの間、城山の防空壕や姶良郡栗野町役場内に臨時営業所を開設し、業務を続行したそうです。
なお、鹿児島市大空襲の際、市内の大半が戦災を被ったにもかかわらず、宿直職員9名の防火努力により木造である当店店舗の焼失を免れた功績を称え、今でも営業所敷地内に記念碑が残されています。