支店の歴史 : 日本銀行神戸支店 BOJ Kobe

支店の歴史

神戸支店開設(昭和2年)

支店の歴史

  •  日本銀行神戸支店開設の経緯について、第13代総裁の深井英五は、その著書(『回顧七十年』)の中で、「日本銀行神戸支店は私の大阪出張中に発案したものである。重役会では大阪、神戸が余りに近距離にあるの故を以て容易にその必要を認められなかったが、当時海運及び貿易上神戸の経済取引が驚くべく増大し、諸般の指数は京都を超えて名古屋に伯仲し、殊に阪神間現金輸送の毎日巨額たるに鑑み、日本銀行の支店設置により便宜を図るの妥当なるを私は主張した」と記しています。
  •   第一次世界大戦を通じて、神戸は日本最大の貿易港としての地位を築き、国際海運、造船等の近代産業が発展しました。また、外国銀行の大半が日本における支店を神戸に集中させるなど、外国為替取引の中心地でもありました(開店直後の本行取引先外国銀行は、神戸支店6行、本店2行、大阪支店0)。このように神戸に支店を開設するということは、日本銀行の業務遂行において大きな意義を持っていたといえるでしょう。
  •  しかし、神戸支店開設への道程は、必ずしも平坦ではありませんでした。折しも日本中が未曾有の金融恐慌に見舞われていた頃であり、神戸支店の開設もその影響を大きく受けました。
  •  特徴的な点として挙げられるのは、大蔵大臣宛の開設申請から実際の開店までの期間が4か月足らずと異例の早さであったことです(前後に開設された他の本行支店では、申請から開設まで1年から2年を要したケースが殆どです)。初代支店長の田中鉄三郎は、「当時の経済環境は相当深刻なものがあったため、日本銀行としては逸早く神戸支店の開設を急ぐことにした」と回想しています。
  •  また、開店の日が近づくにつれて恐慌が一段と深刻化し、取付け騒ぎの混乱等も広がったため、実際の開店は当初の予定日から約1か月遅れたというエピソードも残されています。

(金融恐慌前夜)

  •  昭和2年1月21日、大蔵大臣宛に神戸支店開設の申請がなされ、翌月には大蔵大臣より開設認可が下りました。
  •  当時、我が国の景気は数年に亘って沈滞し、深刻な状況にありました。第一次世界大戦中ならびに大戦後しばらくの間続いた未曾有の好景気の反動から、企業の業績は悪化し、大正9年には株式が大暴落しました。さらに12年には関東大震災による不況が追い打ちをかけます。その後も物価下落や企業収益の悪化が続き、これが銀行の資産内容を悪化させ、散発的な銀行取付けの発生を招くといった事態に繋がっていきました。
  •  なお、震災後4年を経過しても「震災手形」といわれる債権が多数の銀行で焦げ付いたままになっており、恐慌の火種が燻っている状態でした。

【震災手形】

  •  震災で被害を受けた企業に再建の時間を与えるため、被災地の企業が債務者となっている手形(いわゆる「震災手形」)を日本銀行が再割引し、支払いを2年間猶予するというもの。
  •  震災により企業の支払能力が大きく低下していたほか、震災前から焦げ付いていた債権も混入していたため、震災手形の多くは不良化していたといわれます。このため、手形を再割引した日本銀行による資金回収は困難を極め、最終的に処理が完了したのは、実に24年後の昭和26年でした。
  •  こうした中、昭和2年3月の衆議院予算委員会での片岡蔵相の失言が、空前の金融恐慌の引き金を引いてしまいます。震災手形の処理を巡り与野党が激しく対立していた際、大蔵次官から手渡された一枚のメモの内容を、うっかり喋ってしまったのです。その内容とは、「東京渡辺銀行が手形交換尻の決済不能に陥り、休業するに至った」というものでした。これを契機に預金者の不安は広がり、預金の取付けが生じてしまいました。3月中の取付け騒ぎでは東京を中心に7行が休業しましたが、日本銀行の2度に亘る非常貸出によって一応終息しました。

(鈴木商店の破綻)

  •  しかし、恐慌はここからが本番でした。3月の取付け騒ぎ発生後、各金融機関はコールローンの回収に努めるようになりましたが、この結果、当時最大のコール資金の取り手であった台湾銀行の資金繰りは急速に逼迫してしまいます。また、台湾銀行は神戸の鈴木商店に対して巨額の焦付貸出を抱えていたため、事態を深刻化させてしまいます。

【鈴木商店と台湾銀行】

  •  明治末期から大正にかけて世界規模で活躍した鈴木商店は、50数社の傘下企業(その中には、現在の神戸製鋼所や石川島播磨重工業、帝人など、日本を代表する企業を含みます)を擁する企業集団でしたが、その事業内容は、戦時好況に乗じた投機的な色彩が強いものでした。
  •  旧大蔵省編纂『昭和財政史』によれば、「鈴木商店というのは何であるか。それは、第一次世界大戦中に世界をまたにかけて、日本でいちばん大きく投機をやった大商店であった。この商店は、それによって得た大資本をもって、いろいろの大事業をやり、それが集まって1つの新興コンツェルンを築いていた」と記されています。
  •  台湾銀行は、鈴木商店に対して積極的に融資を行っていたため、同社の経営悪化に伴い資産内容が急速に悪化していきました。
  •  鈴木商店の金融機関からの借入金の6割強を台湾銀行が占めていたほか、台湾銀行からみると、同行の総貸出の3割強は鈴木商店向けでした。
  •  3月末に台湾銀行が、鈴木商店に対して新規貸出を実施できない旨を通告したところ、鈴木商店の資金繰りは行き詰まり、4月5日に倒産してしまいました。

(空前の取付騒ぎ)

  •  「鈴木商店倒産」のニュースは、以前から同社と関係が深いとされていた神戸の第六十五銀行への預金取付けに発展してしまい、同行は4月8日には臨時休業に追い込まれてしまいます。また、このときの取付け騒ぎは全国各地に飛び火していきました。
  •  この間、政府や日本銀行は事態の収拾に努めましたが、4月17日、若槻内閣は台湾銀行救済案が枢密院で否決されたため総辞職し、翌18日に台湾銀行は内地支店の休業に追い込まれました。さらに、当時の6大銀行の1つであった十五銀行も休業する事態に陥ってしまうなど、空前の大恐慌となってしまいました。
  •  この取付け騒ぎによって休業した銀行は29行、預金の取付け額は約8億円に上りました(当時の国家予算の半分に相当)。また、日本銀行による対民間銀行貸出は、取付け発生から5週間後に10倍に膨れ上がったほか、各地で百円札が不足してしまい、裏が無地の2百円札が発行されたというエピソードも残っています。
  •  その後、4月21日に発足した田中義一内閣(高橋是清蔵相)が、3週間のモラトリアム(一切の債権債務の支払停止)等を実施したところ、次第に事態は沈静化していきました。

(神戸支店開店へ向けた動きと開店の一旦延期)

  •  こうした恐慌の最中に、日本銀行神戸支店の開設作業が進められていた訳ですが、十五銀行の休業(4月21日)に伴い同行が代行していた神戸市内の国庫事務を引き継ぐために、正式な支店開設を待たず「神戸国庫事務取扱所」(日本銀行神戸支店の前身)を臨時に開設するとともに、5月1日の開店は一旦延期されました。

(いよいよ開店)

  •  5月中旬、「神戸支店ハ来ル6月1日ヨリ営業ヲ開始ス」との2度目の開店通知が発せられ、6月1日に晴れて開店の日を迎えました。日本銀行としては16番目、昭和に入ってからは最初の支店でした。開設当時の人員は27名で、大半は本店と大阪支店からの転勤者だったようです。

支店の歴史当店開設を報じた新聞記事(提供:神戸新聞社)

3つの大きな出来事

  •  こうして開店を迎えた日本銀行神戸支店は、戦時体制から終戦後の復興、高度経済成長、バブル発生と崩壊など、目まぐるしく移り変わる経済情勢の中で、地域経済の安定的な発展や信用秩序の維持といった大きな使命を果たすべく、努力を重ねてきました。
  •  しかし、当店の長年の歴史の中では、必ずしも平穏な時ばかりではなく、自然災害等による大きな試練に遭遇することもありました。ここでは、昭和13年の阪神大水害、20年の神戸大空襲、そして平成7年の阪神・淡路大震災という3つの大きな出来事を振り返ってみたいと思います。

(阪神大水害――昭和13年)

  •  昭和13年7月5日に阪神地方を襲った大水害は、神戸市だけでも死者454人、負傷者1千余人、流失家屋1,400戸、このほか被害を受けた家屋は10万戸に上るなど、大きな被害をもたらしました。
  •  当日は、大雨にもかかわらず当店職員のほぼ全員が出勤し、平常通りに仕事が始められました。しかし、雨は9時頃から急に激しさを増し、濁流となって押し寄せてきました。幸い当店は浸水こそ免れましたが、一時は陸の孤島となり、交通機関の不通もあって支店で一夜を明かした職員が多数いました。
  •  犠牲者が出なかったのは不幸中の幸いでしたが、水が引いてからも、店の前に積もった汚泥の片付けなどで、しばらくは仕事が手に付かない状態が続きました。

(神戸大空襲――昭和20年)

  •  第二次世界大戦は、当店の歴史にも暗い影を落としました。昭和20年当時、仕事中に空襲警報が鳴ると、営業場の扉を閉めて窓口のお客様と一緒に地下倉庫へ避難し、地下で業務を続けたというエピソードも残っています。
  •  そして、運命の6月5日の明け方、店内には宿直者を中心に12名の職員がいました。7時20分頃、25機の米軍機による空襲が始まり、支店の近くで火災が発生しました。職員が消火のために地下室から出た瞬間、焼夷弾が直撃。6名が即死、重傷者3名も一両日中に亡くなるなど、計9名の尊い人命が失われてしまいました。その後、25日には行葬がとり行われ、殉職者の冥福を祈りました。

(阪神大震災――平成7年)

  •  平成7年1月17日、阪神地方を襲った大震災は、死者6,400人以上を数える大惨事となりました。甚大な被害を受けた当地において、当店は金融システムの安定を図るため、大きな役割を果たしました。

(1)現金供給体制の確保

  • 支店の歴史震災当日の金庫内 災害が発生した際に重要なのは、水道や電気と並ぶライフラインである「お金」を円滑に供給することです。幸い当店の建物は頑丈で、建物自体に大きな損壊はありませんでしたが、金庫内の現金、机やロッカーなど、店内は散乱していました。朝7時には早くも支店長以下10数名が支店に駆けつけ、開店に向けた準備を開始しました。7時半過ぎには本店との電話回線を確保し、自家発電ダウンのために使用不能となったシステム処理の代行を本店に依頼しました。
  •  また、市中金融機関に対し①通常どおりに営業を開始すること、②当店からの現金引出しに問題はないことを連絡しました。市中金融機関の当店からの現金引出しは、当日こそ皆無でしたが、翌18日以降は大量の現金引出しの申し出があり、その金額は3日間で1千億円近くに上りました。
  •  このほか、当日給料日に当たっていた2官庁に対しては、3千万円の支払いを行いました。官庁数や金額は大きいものではありませんが、仮に当店が現金を支払うことができなかった場合には、「最後の頼みの綱である日銀も現金を支払ってくれない」という噂が広がり、パニックにも繋がりかねなかっただけに、その意義は大きいものがあったといえます。


(2)「金融特例措置」への対応

  • 支店の歴史
  •  現金の円滑な供給とともに、当店は「金融特例措置」の発動を早急に実施しました。これは、被災者の便宜等を図るために、①預金証書や通帳等を紛失しても預金者であることを確認して払戻しに応じる、②届出印鑑を紛失しても拇印で応じる、③定期預金等の中途解約やこれを担保とする貸出に応じる、④汚損銀行券の引換えに応じる、⑤国債を紛失した場合の相談に応じる、などを主な内容としていました。
  •  これを発動するためには、日本銀行の支店長は神戸財務事務所長(近畿財務局)と協議することが必要でした。当日、神戸財務事務所の建物では火災が発生していましたので、当店の支店長室において協議を行い、金融特例措置の発動を決定しました。
  • 支店の歴史(注)3.6.7.8は省略
  •  因みに、神戸財務事務所長は建物の火災のため印鑑を持参できなかったので、金融特例措置の通知文作成に当たっては赤鉛筆のサインで代用したとか、電話もFAXも不通のため、当店職員が自転車でポートアイランドの記者クラブに通知文を届けたというエピソードも残っています。

(3)損傷した銀行券や貨幣の引換え
支店の歴史震災時の損券引換風景

  •  火災で焼け焦げたお札や傷んだ貨幣を、新しいものと引換える事務が繁忙を極めました。当店職員は、「被災者の立場に立って、1円でも多く交換できるように」との気持ちで、懸命に作業を続けました。 虎の子の経営資金が燃えてしまった中小企業の経営者や、お年玉が灰になってしまった女の子など、窓口にいらっしゃる顔は一様に沈みがちでしたが、新札を受け取られると、「これで生きる希望が湧いた」とか「万歳!」と、笑顔で帰っていかれました。結局、約半年間で1,800件の引換えがあり、金額では8億円(銀行券14万枚、貨幣113万枚)に上りました。



(4)金融機関に対する臨時窓口の提供
支店の歴史当時手書きで作られた臨時窓口地図

  •  1月20日からは、店舗が倒壊した金融機関(14行庫)に対し、当店とさくら銀行神戸営業部(当時)が臨時窓口を提供しました。これに必要な飲料水の確保は兵庫県に、また、店内の警備は兵庫県警の協力を仰ぎました。この措置は休日の臨時営業日も含めて2月3日まで続けられ、この間の来店客数は約3千名、そのうち約半分の方が預金を引き出し、総額は15億円に達しました。このほか、自分の取引銀行が当店の中で営業している様子を見たり、電話で確認したりして安心された方々も多数いらっしゃいました。

(5)手形交換の再開

  •  震災直後は、神戸手形交換所の建物に入ることができなかったほか、金融機関の店舗倒壊や渋滞等もあって、神戸市内の手形交換は休止せざるを得ませんでした。しかし、決済システムを一日も早く再開する必要があったため、1月24日、さくら銀行栄町支店の会議室を使って、神戸手形交換所は再開されました。再開に当たっては、大阪手形交換所に滞留していた未決済の手形・小切手を、パトカーの先導を受けながら神戸に搬送しました。 
  •  このように、日本銀行や民間金融機関、官庁など多くの関係者は、大半は自らも被災者でありながら、金融システムの安定に向け懸命に努力しました。その結果、取付け騒ぎや銀行破綻といった大きなパニックは回避され、被災者のライフラインである「お金」への信頼は維持されました。このことが、その後の復興の土台となったともいえるのではないでしょうか。

─支店の建物に関するあれこれ─

《旧店舗》
2.jpg日本銀行神戸支店旧店舗

  •  開設当時の神戸支店の建物は、現在の神戸市立博物館北側にありました。敷地を購入したのは開設6年前の大正10年のことで、かつて外国人による自治が行われていた旧居留地らしく、元々は独亜銀行というドイツの銀行の土地でした。
  •  敷地購入の2年後に関東大震災が発生したのを受けて、より耐震性、耐火性を高めるために、完成していた当店の設計図を書き直すことになりました。後の大空襲で店舗倒壊を免れたのは、この時に設計を変更したおかげだったのかもしれません。
  •  戦時中には、空襲の目標物とならないように、建物全体がコールタールで真っ黒に塗られていました。終戦後、元の姿に戻そうと何度か剥ぎ取り工事をしたのですが、塗り付けが余りにも完璧だったため、作業は難航し、結局、サンドスプレーという方法による大工事の末に、昭和25年に漸く元の姿を取り戻すことができました。

《現在の店舗へ》

  •  戦後の経済発展に伴って当店の事務量と職員数は増えていき、建物は次第に手狭になりました。このため、昭和34年、道を隔てた向かい側に店舗を新築することになり、36年7月1日に落成、10日には営業を開始しました。これが現在の日本銀行神戸支店の店舗です。
  •  新店舗は、日本銀行の支店としては初の4階建てでした。また、エスカレーターの設置も初めてというように、当時としてはかなり近代的で、周囲からも目立つ建物だったようです。現在では周囲に高層ビルが立ち並び、余り目立たなくなりましたが、旧店舗と同様に堅牢に建てられたため、阪神・淡路大震災にも耐えました。
  •  震災犠牲者への鎮魂のイベントとして始まったルミナリエは、当店前の道路で開催されており、今ではすっかり神戸の冬の風物詩として、大勢の市民や観光客を楽しませてくれています。