本文へ移動

MENU

支店の歴史

開設

神戸支店は、1927(昭和2)年6月1日に、日本銀行の16番目の支店、昭和入り後の最初の支店として開設されました。神戸は、第一次世界大戦を通じて、日本最大の貿易港としての地位を築き、国際海運、造船等の近代産業が発展しました。また、外国銀行の大半が日本における支店を神戸に集中させるなど、外国為替取引の中心地でもありました。しかし、神戸支店開設当時は、日本中が未曾有の金融恐慌に見舞われていた頃であり、神戸支店の開設もその影響を大きく受けました。

神戸支店開設時のエピソードは、こちらをご覧ください。

開設を報じた新聞記事(提供:神戸新聞社)

開設を報じた新聞記事(提供:神戸新聞社)

建物の歴史

旧店舗

開設当時の店舗は、現在の神戸市立博物館の北側にありました。敷地購入の2年後に関東大震災が発生したことから、より耐震性、耐火性を高めるため、完成していた設計図を描き直すことになりました。この設計変更がなければ、後の大空襲で店舗倒壊を免れることができなかったかもしれません。

戦時中は空襲の目標物とならないように、建物全体がコールタールで黒く塗られました。終戦後、元の姿に戻そうと剥ぎ取り工事を行ったのですが、塗り付けが完璧だったために作業は難航し、1950(昭和25)年にようやく元の姿を取り戻すことができました。

旧店舗の設計は、日本銀行本店本館や東京駅を設計した辰野金吾の弟子の長野宇平治によるものです。辰野金吾に学んだ長野の設計する日本銀行支店建物は、古典主義の色彩が強く長野のオリジナリティがあらわれています。

日本銀行神戸支店旧店舗

日本銀行神戸支店旧店舗

日本銀行神戸支店旧店舗

長野宇平治

現在の店舗

戦後の経済発展に伴って、当店の事務量と職員数は増えていき、建物は手狭となりました。そこで、道を隔てた向かい側に店舗を新設することになり、1961(昭和36)年7月10日に現在の場所に移転しました。日本銀行の支店として、4階建てでエスカレーターが設置されたのは初めてのことで、当時としてはかなり近代的だったようです。

現在の店舗も、旧店舗と同様に堅牢に建てられたため、阪神・淡路大震災にも耐えることができました。

災害と戦災
― 災害が起こっても役割を果たし続けること ―

阪神大水害

水害で被害を受ける神戸市加納町三丁目付近

1938(昭和3)年7月3日から5日にかけて発生した大水害は、神戸市だけでも死者616名、被災家屋89,715戸に達する大災害となりました。

7月5日は、大雨の中、ほとんどの職員が出勤し、平常通り仕事を始めましたが、雨は9時頃から急に激しさを増し、濁流となって押し寄せてきました。当店は、浸水こそ免れましたが、一時は陸の孤島となり、交通機関の不通もあって、支店で一夜を明かした職員が多数いました。

神戸大空襲

空襲後の神戸

第二次世界大戦は、当店の歴史にも暗い影を落としました。1945(昭和20)年当時、空襲警報が鳴ると、営業場の扉を閉めて窓口のお客様と一緒に地下倉庫へ避難し、地下で業務を続けたというエピソードも残っています。

そして、運命の6月5日の明け方、店内には宿直者を中心に12名の職員がいました。7時20分頃、25機の米軍機による空襲が始まり、支店の近くで火災が発生しました。職員が消火のために地下室から出た瞬間、焼夷弾が直撃。6名が即死、重傷者3名も一両日中に亡くなるなど、計9名の尊い命が失われてしまいました。その後、25日には行葬が執り行われ、殉職者の冥福を祈りました。

阪神・淡路大震災

阪神高速道路(東灘区)

1995(平成7)年1月17日に阪神・淡路地域を襲った大震災は、日本で初めての近代的な大都市における直下型地震であり、神戸市を中心とした阪神地域および淡路島北部は甚大な被害を受けました。

その際、当店では、早期に現金供給体制を確保したほか、金融機関等に対する金融特別措置の要請や被災した金融機関への臨時窓口の提供、損傷したお金の引換えなど、様々な対応を行いました。

当時、当店が果たした主な役割は、こちらをご覧ください。