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1867年6月(龍馬33歳)、龍馬は、長崎から後藤象二郎とともに土佐藩の藩船夕顔丸で京都に向かう間、徳川家から朝廷に政権を返戻し、朝廷を中心とした合議政治を行うことなどを中心としたいわゆる「船中八策」(その後1868年3月に発表された明治政府の基本方針である「五箇条の御誓文」に、内容の一部が盛り込まれることになります)を作成しました。

その後、土佐藩では「船中八策」を元に「大政奉還」に向けた活動を後藤象二郎が中心となって進めましたが、万が一、薩摩長州を中心として進められていた武力討幕路線が実行に移された時に土佐藩も速やかに加わることができるよう、海援隊では1867年9月14日、オランダ商人ハットマンからライフル銃1300丁を代価18,875両で購入しました。

9月18日、龍馬は芸州藩から借りた震天丸にライフル銃を積んで長崎を出港、下関経由で24日に浦戸に入港しました。入港した龍馬は京都の状況を簡潔に記した手紙を使者に持たせ、土佐藩仕置役渡辺弥久馬に届けました。同日午後6時頃、松ヶ鼻の茶亭において、渡辺や大目付本山只一郎らと会合し、龍馬は武力討幕に向け薩長の活動が活発化している京都の緊迫した情勢を伝えました。事態を悟った土佐藩は龍馬が持参したライフル銃を全て買い入れることに合意しました。

なお、この時(同月29日)、龍馬は脱藩以来、約5年ぶりに実家に帰り、兄権平はじめ乙女、姪春猪らとの久方の再会も果たしています。

翌月(10月)15日、15代将軍徳川慶喜は土佐藩主山内容堂からの建白を受け入れて、朝廷へ政権を奉還、龍馬が描いた政権交代の構想がとうとう実現しましたが、それから1か月後となる11月15日に龍馬は中岡慎太郎とともに京都近江屋にて暗殺され、帰らぬ人となりました。

坂本龍馬、享年33歳、“世界の海援隊”を目指していた龍馬にとってやり残したことは数多くあったかもしれませんが、幕末に残した大きな足跡からすると、短くも中身の濃い「太い」人生だったといえるかもしれません。

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37億円

  
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