日本銀行甲府支店
       
Bank of Japan Kofu Branch
                     

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支店の沿革


年 月 甲府支店 山梨県
1945年 7月 甲府支店開設(23日) 
(当時の
山梨中央銀行相生町支店で業務開始)
甲府市大空襲
(6日、全市の7割が焦土に)
    12月 山梨県銀行協会設立
1946年 5月 甲府手形交換所設立
1947年 5月 戦後初の県議会開会
1949年 5月 山梨大学発足
1952年 4月 山梨平和博覧会、甲府と身延で開催
1964年 6月 南アルプス国立公園、八ヶ岳中信高原国定公園指定
県鳥にウグイス、県獣にカモシカ決定
1970年 10月 中央線、新宿〜甲府間全線複線化
11月 新店舗用地を県から取得(県立中央病院跡地)
1975年 8月 店舗新築工事着工(現在の店舗)
1976年 9月 新店舗完成
   10月 新店舗で業務開始
1978年 10月 山梨医科大学開学
   11月 県立美術館開館
1982年 11月 中央自動車道全線開通
1987年 5月 3課制スタート(総務課、発券課、業務課)
1988年 1月 NHK大河ドラマ「武田信玄」放映
    8月 日本銀行金融ネットワークシステム稼動開始
1989年 11月 県立文学館開館
1997年 4月 リニア実験線開通
1998年 4月 雁坂トンネル開通
   7月 県立科学館開館
2002年 11月 ホームページ開設
2004年 4月 舞鶴城公園稲荷櫓オープン
   11月 新しい銀行券の発行
若い記番号を肖像等に関係の深い先へ配付


(五千円)


(千 円)
A000005A 塩山市(甘草屋敷)
A000006A 山梨県(県立文学館)
 
− 樋口一葉情報は下掲へ
A000007A 山梨県      
(県立富士ビジターセンター)
2005年  7月 支店開設60周年
10月 県立博物館開館
2007年  1月 NHK大河ドラマ「風林火山」放映


 甲府支店開設
写真提供:山梨中央銀行
 1945年6月、連合国軍による本土空襲が激しくなり、その被害は大都市から地方都市にまで及び、さらに関東平野に上陸する懸念さえ生じていました。日本銀行では、このような情勢に対応するため、本店業務の一部を疎開することとし、甲府市に支店を設置することとなりました。しかし、甲府市では、7月6日夜半からの空襲により全市の大半が焼失、官庁及び金融機関の店舗の被害も大きいものとなりました。幸い、日本銀行甲府支店の店舗設置予定地であった、山梨中央銀行相生町支店(現在の甲府商工会議所の位置)は、営業所及び金庫には被害がなかったため、予定よりは幾分遅れましたが7月23日に支店を開設することが出来ました。ただ、終戦間際の大混乱の中、本店業務の一部疎開は実現されず、開設直後の業務は、甲府空襲により焼けたお金の引換えが中心であったとのことです。


 新店舗用地


 新店舗完成
山梨県の地場産業に因んだワインカラーの建物として評判を呼んだそうです。



  樋口一葉情報

  新しい銀行券の肖像に
    
    2004年11月1日に発行された新五千円札の肖像には、山梨県甲州市(旧塩山
   市)とゆかりの深い作家である「樋口一葉(1872〜1896)」が採用されました。


  若い記番号の新券配付について



  樋口一葉と山梨
  
    樋口一葉は、明治を代表する女流文学者として数々の傑作を残しました。その中で、
   山梨と関わりのある作品としては、小説「ゆく雲」を書き記しています。
    この作品は、一葉の両親の出身地である山梨県大藤村の中萩原(現、甲州市中萩
   原)を舞台の一つとしています。一葉自身は生涯この地を訪れることはありませんで
   したが、現在、甲州市の慈雲寺の境内には、一葉の生涯をしのぶ「一葉女史碑」が建
   てられています。こうしたことからも、一葉は、山梨とゆかりの深い作家となってい
   ます。
 
     
 
 「ゆく雲」の中で主人公の桂次が故郷大藤村の風景を思い出している場面です。

 我が養家は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは天目山、大菩薩峠の山々峰々、垣をつくりて、西南にそびゆる白砂の富士の嶺は、をしみて面かげを示さねども、冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、魚といひては甲府まで五里の道を取りやりて、やうやうまぐろの刺身が口に入る位。
 
山梨県甲州市塩山中萩原からの秩父、大菩薩嶺、重川の風景
<写真提供:山梨県立文学館>

  樋口一葉の生い立ち

(1872年-1896年)
<山梨県立文学館提供>
 
 一葉は、明治5年(1872年)樋口家の次女として東京に生れました。父大吉(則義)と母あやめ(たき)は山梨県大藤村の中萩原(現、甲州市塩山中萩原)の出身です。父大吉(則義)は学問好きで、慈雲寺(じうんじ)の寺子屋で白巖(はくがん)和尚に学びました。そこで近くの古屋あやめ(たき)と恋仲になりますが結婚を許されず、同じ村の真下晩菘(ましもばんすう)を頼りに江戸にでていきました。
 大吉(則義)は、蕃書取調所の小使いから、旺盛な知識欲と機転で信頼を得る一方、蓄財に励み、慶応3年(1867年)、八丁堀同心だった浅井家の株を買い幕府直参の武士となりました。明治になってからは、東京府(現、東京都)の官吏のほか、不動産・金融業で生活の安定を図ったため、幼い頃の一葉は、かなり豊かな生活を送ることができました。
 また、一葉は、明治16年(1883年)、11歳で青梅学校小学高等科第4級を一番の成績で卒業しますが、母の意見で上の級には進まず、それ以降、学校教育は受けませんでした。しかし、学問を続けさせてやりたいという父の気持ちから、明治19年(1886年)、14歳の時、歌人中島歌子の塾、「萩の舎」に入門することになります。そこでは、一葉の才能と人柄が認められ、のちには先生の助手までつとめるようになりました。
 しかし、このころ、兄泉太郎の病死と父の事業の失敗と病死が続き、一葉は、17歳で一家の生計を担わなければならなくなりました。そこで、一葉は小説を志し、その収入で一家を養おうと決意します。19歳の時、知人の紹介で、新聞記者で作家の半井桃水(なからいとうすい)を訪ね、小説の指導を受け始めます。徐々に雑誌や新聞に小説を発表できるようになりましたが、少ない原稿料だけでは生活できず、借金や質屋通いをしなければなりませんでした。21歳の時には、荒物・駄菓子屋を始めましたがうまくいきませんでした。生活は依然苦しいながらも、後に「奇蹟の14カ月」といわれるようになる、明治27年(1894年)12月から29年(1896年)1月までの1年余りの間には、「大つごもり」、「たけくらべ」、「ゆく雲」、「にごりえ」、「十三夜」等の作品を次々に発表し、日増しに名声が高まっていきました。ところが、このころから一葉は肺結核の症状が現れ、明治29年(1896年)11月23日、24歳で短い生涯を閉じました。

 樋口一葉リンク集
   
甲州市役所 慈雲寺
山梨県立文学館 台東区芸術文化財団


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