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歴代営業所のご紹介

初代営業所(1894<明治27>年4月~1906<同39>年6月)

 営業所開設前後の京都は、琵琶湖からの疎水工事が完成(明治23年)して、発電、電気鉄道 (我が国初)、水道の3大事業が相次いで興り、さらに第4回内国勧業博覧会が東京を離れて初めて 開催される(明治28年)など、京都経済がいちはやく近代化に向かって歩み始めた時期であった。

 これにともない、資金の動きが活発化したため、地元からの強い要請もあって、 京都出張所が開設されることとなった。
 発足当時の陣容は30名で、明治26年に開設した西部支店(現・北九州支店)の14名を上回るものであった。業務面でも開設の翌年には貸付、割引業務を開始するなど、名称は出張所であっても機能的には支店と変わりはなかった。

 初代の営業所は、東洞院通御池上ルの民家を買収して改造したものを仮店舗として使用した。当時の職員は、和服に角帯姿で陶器の弁当箱を持って通勤したと言われている。

2代目営業所(1906<明治39>年7月~1965<昭和40>年9月)

 初代の営業所は当初から仮店舗という位置づけであったので、営業所開設早々から新営業所の候補地選びが始められた。
その結果、明治29年に当時京都の商業金融の中心地であった三条高倉が2代目営業所として選定された。

 営業所として選定された土地は、治承4年(1180年)に平家追討の令旨を発した高倉宮(のちの後白河天皇の皇子・以仁<もちひと>王) の屋敷跡と伝えられる。

 2代目営業所は、日本銀行本店や東京駅を手がけた辰野金吾博士とその弟子・長野宇平治氏の設計により2年10ヶ月の歳月を 費やして建築 されたもので、明治39年6月に完成した。
この建物は、白いラインを利かせた格調の高い赤レンガ造り二階建ての優美かつ重厚堅固なもので、現在も明治期の典型的な洋風建築物として評価が高く、 国の重要文化財に指定されている。

 3代目営業所への移転後、2代目営業所跡地には京都府京都文化博物館が建設されたが、 営業所の建物は別館としてそのまま残されている。

 三条高倉の辺りは、首都が東京に移された後、多くの近代建物が建築されたところであり、この建物に当時の面影を偲ぶことができる。

3代目営業所(1965<昭和40>年10月~)

 明治から大正、そして昭和へと時代が遷り変わるにつれ、事務量はもとより職員も増加して2代目営業所も手狭になった。
 また、2代目営業所の位置していた三条高倉は古くからの問屋街で、周辺道路は幅員が狭いところに路上駐車が認められていた。営業所開設から四半世紀が経ち、自動車の交通量が増えてくると、現金輸送用トラックが円滑に出入りできなくなる惧れもあった。

 こうした事情から営業所を移転することとなったが、候補地となったのは「史跡高瀬川一之船入の北に隣接した旧織殿(おりどの)跡」と「二条城北東角の幼稚園、少年補導所」 の2か所である。
 結局、市内有数の観光名所である二条城に隣接する場所は観光シーズンに道路混雑が生ずると考えられたので、旧織殿跡が3代目営業所として選定された。

 旧織殿とは明治初期の官営織物工場のことで、染殿(染色技術の研究・教育機関)・ 舎密(せいみ)局(化学の実験・教育機関)とともに明治時代における京都産業革命の原動力となった。

 また、ここにあった庭園は小堀遠州流の池泉回遊式庭園として名高く、その建物の一部は江戸中期の作として由緒あるものであったので、営業所の新築着工に先立ち 二条城内に移設復元し、現在、清流園として保存されている。

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