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経済産業構造の特徴

東予地区
中予地区
南予地区

経済産業構造の特徴

 平成26(2014)年度の愛媛県内総生産は4兆7,565億円。これは国内総生産514兆2,963億円の約1%に相当し、この比率がこれまで余り変化していないことから、愛媛県は、しばしば「1%経済」といわれています。産業別構成(図1)をみると、全国と比較して、第一次産業(農業・林業・水産業)および第二次産業(鉱業・製造業・建設業)のウエイトが高く、第三次産業(第一次・第二次産業以外)のウエイトが低くなっています。
 また、地域別の産業構成(図2)をみると、東予地区(今治市・西条市・新居浜市・四国中央市等)では第二次産業のウエイトが高い、中予地区(松山市・伊予市・東温市等)では第三次産業のウエイトが高い、南予地区(八幡浜市・大洲市・西予市・宇和島市等)では第一次産業のウエイトが高いなど、地域ごとに経済構造がかなり異なっていることが大きな特徴となっています。



(図1)愛媛県の産業別構成比 愛媛県の産業別構成比

          (注)構成比は、総生産額(産業ごとに格付けできない加算<関税等>控除<帰属利子等>項目を含む)を分母としているため、
          第一次・二次・三次産業の合計は100にならない。

(資料)内閣府「県民経済計算(平成26(2014)年度)」



(図2)愛媛県の地域別の産業構成比 愛媛県の地域別の産業構成比

          (注)総生産額には、産業ごとに格付けできない加算(関税等)控除(帰属利子等)項目が含まれているため、各産業の合計とは
          一致しない。そのため、構成比は、第一次・二次・三次産業の合計に対する割合を表示。

(資料)愛媛県「市町民所得統計(平成26(2014)年度)」

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東予地区

産業構造

 第二次産業、特に製造業のウエイトが高くなっています。四国中央市およびその周辺では、紙関連産業が発達しており、中心となる製紙業はもちろんのこと、紙を原材料として衛生用品や封筒などを作る紙加工業、製紙用機器を生産する機械製造業などが数多く立地しています。新居浜市・西条市およびその周辺では、別子銅山を起源とする非鉄金属業や、それに関連して発達した化学・一般機械関連の企業などが集積しています。今治市およびその周辺では、タオルやアパレルを中心とした衣服・繊維関連、海運(豆知識Q1へ)や造船関連、電気機械などの企業が数多く立地しています。

特産品

 江戸時代、西条藩(西条市)が紙すきを奨励したことから始まりました。西条藩の奉書紙(浮世絵を摺りあげる和紙)が特に有名です。しかし、明治維新後は藩営専売制廃止や西洋紙の輸入に伴う和紙需要の減少、原料の調達難などが重なり、徐々に衰退しました。
 代わって、港や豊富な地下水などの立地条件に恵まれた四国中央市およびその周辺地域で機械すきが発展し、現在に至っています。

水引細工(みずひきざいく)

 江戸時代の元結(もとゆい)の生産が、愛媛県における水引細工生産の起源だといわれています。製紙産業が盛んな四国中央市の特産品であり、中でも慶弔、お餞別、お見舞いなどで使用される「金封(きんぷう)」は約7割が愛媛県で生産されています。

タオル

 明治27(1894)年、今治市の綿ネル業者であった阿部 平助氏がタオルの生産を始めたことが起源。明治43(1910)年には、綿織物業者であった麓常 三郎(ふもとつね さぶろう)氏がタオルを二列同時に織る「バッタン」といわれる高性能タオル織機を考案、大正元(1912)年には、中村 忠左衛門氏が大衆向けタオルを考案し、今治市におけるタオル生産業が発達しました。平成28(2016)年12月現在、同市には 113社(今治タオル工業組合調査)のタオルメーカーが存在し、日本一の産地(豆知識Q3へ)を形成しています。

桜井漆器

 江戸時代後期、桜井(今治市桜井)では海運技術を利用し、九州からは唐津(佐賀県)の陶器を、紀州からは黒江(和歌山県)の漆器を調達し、大阪や瀬戸内圏の消費地に販売していましたが、そのうち、黒江から漆器の製造技術を導入し、売れ行きのよい漆器を自らで作るようになりました。当初は安価な春慶(しゅんけい)塗りが中心でしたが、その後独自の「櫛指(くしざし)法」という堅牢な漆器の製造方法が考案され、全国に知れ渡るようになりました。

菊間瓦(きくまがわら)

 鎌倉時代、伊予の豪族河野(こうの)氏の支配時代に、菊間(今治市菊間)で製造が始まったといわれています。温暖少雨で自然乾燥に適した気候であったこと、原料の粘土や燃料の松葉に恵まれていたこと、輸送手段として海運が盛んだったことなどから、その後も発達しました。いぶし銀の光沢の美しさや、何百年もの風雨に耐える強度と耐久性には定評があり、数々の建築物で使用されています。愛媛県内では、道後温泉本館、松山城などで使われているほか、皇居にも納められました。

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中予地区

産業構造

 第三次産業が中心となっています。県庁所在地である松山市には、大型百貨店を始めとする小売業や、道後温泉(豆知識Q2へ)、松山城を代表とする観光産業のほか、大学などの教育産業、新聞やテレビ局などの情報サービス業などが数多く立地しています。このほか、製造業についても、ボイラーや農業機械などの一般機械や金属加工、鰹だしなどの食品のメーカーが数多く存在します。また、臨海部には大手の繊維・化学合成品メーカーが立地しています。

特産品

砥部焼(とべや)き

 砥部町は古くから「伊予砥石」の産地でしたが、安永4(1775)年、一帯を治めていた大洲藩主加藤 泰候(かとう やすとき)公が、磁器作りを命じたことにより陶器作りが始まりました。安永6(1777)年には、杉野 丈助(すぎの じょうすけ)氏が白磁の焼成に成功し、これが現在の砥部焼きの始まりといわれています。
 砥部焼きは、重みのあるぼってりとした厚さの清楚な白磁に、藍で模様が描かれているのが特徴ですが、最近では、愛媛県窯業試験場が洋食器に向くタイプの砥部焼きを開発するなど、新たな試みが行われています。

伊予絣

 日本三大絣(他の二つは久留米絣(福岡県)、備後絣(広島県))のひとつです。伊予郡垣生村今出(はぶむらいまず)(松山市)の農家の主婦、鍵谷 カナ氏が、享和年間(1801〜1803)に考案したもので、藍で染めた木綿糸を織ったものです。現在では、現代風の柄の絣も織られ、着物のほか、洋服やバック、財布など多様な製品が作られています。

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南予地区

産業構造

 第一次産業と第二次産業の中の建設・土木業のウエイトが高くなっています。第一次産業では、みかんを中心とする果樹栽培、近海漁業や海面養殖が盛んです。海面養殖では、宇和海での真珠養殖やマダイ、ハマチなどの養殖が有名です。

特産品

みかん

 今から200年前、吉田藩(宇和島市吉田町)の加賀山 平次郎氏が観賞用として購入してきた温州(うんしゅう)みかんの苗木を庭に植えたのが、始まりとされています。その後、同じ吉田藩の加賀山 千代吉氏がこの品種に注目し、商作物として栽培されるようになりました。年間を通して温暖かつ雨の少ない気候や、海岸に沿った日当たりのよい傾斜地がみかん栽培に適しており、明治頃には、品質の良さが全国で知られていたといわれています。
 現在、愛媛県では約48品種の柑橘類が栽培されており、中でも「温州みかん」や「いよかん」の生産量(豆知識Q4へ)は全国でトップレベルとなっています。また、近年は「紅まどんな」、「ひめのか」、「媛小春」、「甘平」といった新品種を開発し、愛媛県内限定で栽培されています。

養殖真珠

 愛媛県の真珠養殖は、明治42(1909)年、御荘(みしょう)湾の平山(南宇和郡愛南町)で、小西 佐金吾(こにし さきんご)氏が母貝(ぼがい)養殖と人工真珠養殖を開始したことから始まりました。その後、昭和30年代に入り、当時すでに真珠養殖が盛んであった三重県英虞(あご)湾で、過密養殖を原因とする養殖貝の斃死(へいし)が頻発した際、新たな養殖場所を求めて業者が愛媛県へ転入したことから、愛媛県での真珠養殖が本格化しました。その後、愛媛県の真珠養殖は、全国1位の生産量を誇るまでに拡大し、平成3(1991)年には、生産量は24.6tに達しました。しかしその後、バブルの崩壊による需要減退に、平成8(1996)年頃から発生した真珠母貝の大量斃死が追い討ちをかけ、生産量は一時、ピークの5分の1にまで減少してしまいました。しかしながら近年は、大量斃死の原因についての研究も進み、生産量の減少傾向には歯止めが掛かりました。平成28(2016)年の生産量は8tと全国第1位になっていま
す。(注)
 愛媛県産の真珠は、サイズが大きく、地色や光沢が優れているなど、品質の良さに定評があり、我国における真珠のトップブランドメーカー各社も宇和島の真珠を使用しています。

(注)参考資料:農林水産省 (平成29(2017)年4月25日) 「平成28年漁業・養殖業生産統計(速報)」

養殖魚(マダイ、ハマチ、カンパチ)

 昭和36(1961)年頃、宇和島市や西予市周辺でハマチ養殖が始まったのが愛媛県における養殖漁業の始まりだといわれています。その後、養殖方法の改善などによってハマチ養殖は順調に発展し、特に沿岸漁業の不振を背景として海面漁業から養殖漁業への転換が進んだ昭和55(1980)年頃から、生産量が急増しました。
 マダイは、ハマチに代わる有望魚種として昭和45(1970)年頃から養殖が始まりました。歩留(ぶど)まり(注1)がよく、出荷価格も比較的安定していたため、平成2(1990)年以降は、ハマチからマダイ養殖への転換が進み、生産量が増加しました。平成5(1993)年には、「県の魚」に選定されています。
 平成28(2016)年のハマチやカンパチなどブリ類の生産量は219百tで全国2位、マダイは390百tで全国1位となっています。(注2)
 最近では、消費者の嗜好多様化等に対応すべく、マハタやクエ、さらにはクロマグロなどの新しい魚種の養殖にも取り組んでいます。

(注1)歩留まりとは、投入した稚魚のうち、商品として販売できる状態にまで成長する割合のことをいいます。

(注2)参考資料:農林水産省 (平成29(2017)年4月25日) 「平成28年漁業・養殖業生産統計(速報)」             

魚肉練製品(じゃこてん、蒲鉾(かまぼこ))

 南予地区における魚肉練製品の起源は、元和元(1615)年、伊達 秀宗(だて ひでむね)公が伊予宇和島十万石を与えられた際、仙台の蒲鉾職人を同行させて来たことが始まりだとされています。一方、八幡浜では、明治23(1890)年に、鈴木 峰治(すずき みねじ)氏が宇和島から製法を伝えたことによって始まったとされています。南予地区の練製品は、その後「じゃこ天(宇和海近海でとれた小魚を骨ごとミンチにし、塩などの調味料を加えてすり、油で揚げたもの)」など独自の進化を遂げ、さまざまな業者が独自の味を競う地元自慢の名物となっています。

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