樋口一葉
 〜生い立ち〜


(1872年-1896年)
<山梨県立文学館提供>


 一葉は、明治5年(1872年)樋口家の次女として東京に生れました。父大吉(則義)と母あやめ(たき)は、山梨県大藤村の中萩原(現、甲州市塩山中萩原)の出身です。父大吉(則義)は学問好きで、慈雲寺(じうんじ)の寺子屋で白巖(はくがん)和尚に学びました。そこで近くの古屋あやめ(たき)と恋仲になりますが、結婚を許されず、同じ村の真下晩菘(ましもばんすう)を頼りに江戸にでていきました。
 大吉(則義)は、蕃書取調所の小使いから、旺盛な知識欲と機転で信頼を得る一方、蓄財に励み、慶応3年(1867年)、八丁堀同心だった浅井家の株を買い幕府直参の武士となりました。
 明治になってからは、東京府(現、東京都)の官吏のほか、不動産・金融業で生活の安定を図ったため、幼い頃の一葉は、かなり豊かな生活を送ることができました。
 また、一葉は、明治16年(1883年)、11歳で青梅学校小学高等科第4級を一番の成績で卒業しますが、母の意見で上の級には進まず、それ以降、学校教育は受けませんでした。
 しかし、学問を続けさせてやりたいという父の気持ちから、明治19年(1886年)、14歳の時、歌人中島歌子の塾、「萩の舎」に入門することになります。そこでは、一葉の才能と人柄が認められ、のちには先生の助手までつとめるようになりました。
 このころ、兄・泉太郎の病死と父の事業の失敗と病死が続き、一葉は、17歳で一家の生計を担わなければならなくなりました。そこで、一葉は小説を志し、その収入で一家を養おうと決意します。
 19歳の時、知人の紹介で、新聞記者で作家の半井桃水(なからいとうすい)を訪ね、小説の指導を受け始めます。徐々に雑誌や新聞に小説を発表できるようになりましたが、少ない原稿料だけでは生活できず、借金や質屋通いをしなければなりませんでした。
 21歳の時には、荒物・駄菓子屋を始めましたがうまくいきませんでした。生活は依然苦しいながらも、後に「奇蹟の14カ月」といわれるようになる、明治27年(1894年)12月から29年(1896年)1月までの1年余りの間に、「大つごもり」、「たけくらべ」、「ゆく雲」、「にごりえ」、「十三夜」等の作品を次々に発表し、日増しに名声が高まっていきました。
 ところが、このころから一葉は肺結核の症状が現れ、明治29年(1896年)11月23日、24歳で短い生涯を閉じました。

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