明治15年(1882年)10月10日の日本銀行開業からわずか2か月後の12月18日に日本銀行大阪支店が開設されました。大阪支店は本店とともに140年の日本銀行の歴史を築いてきました。これまで大阪支店を支えてくださった行政・企業・地域のみなさまに、心より感謝申し上げます。
江戸時代、大阪は「天下の台所」と呼ばれ、日本における経済の中心的な役割を果たしていました。運河が整備された「水の都」である特徴を活かし、海運・水運により日本各地から物資が集められ、商業が発展しました。また、各地の大名諸藩の多くは、現在、日本銀行大阪支店のある中之島に蔵屋敷を設け、年貢として納められた米を金銭に替え、藩の財政を運営していました。このため、現在の銀行に相当する両替商が数多く大阪の地に集まっていたほか、堂島には米の取引所(堂島米会所)が設立されました。この取引所は、先物取引という高度な取引手法を世界でおそらく初めて導入したことで知られています。江戸時代の大阪は日本のマネーセンターでもありました。幕末から明治初期にかけて、蔵屋敷の廃止や藩債の切り捨て(両替商や商人が大名に貸付けていたお金の大部分が返済されませんでした)などから、大阪経済は一時衰退しますが、その後、多くの近代企業や銀行が設立され、大阪は再び経済的な輝きを取り戻していきました。
復活を遂げた大阪は、明治10年(1877年)頃までには、工業生産額で東京の約3倍を誇る経済都市となっていました。日本銀行は、明治15年(1882年)10月10日に本店が設立されると直ちに、大蔵卿(現在の財務大臣)の松方正義に対して大阪支店の設置を願い出ました。その結果、本店設立のわずか69日後の12月18日、旧東区今橋5丁目(現在の大阪倶楽部の場所)に大阪支店が開設されました。初代大阪支店長には、外山脩造が就任しました。外山は、大阪で経済を一層発展させるためには手形割引の普及が必要であると考え、大阪支店の手形割引レート(いわゆる「公定歩合」)を本店よりも低く設定するなどして、市中の銀行に手形割引を奨励しました。こうした施策もあって、大阪支店の手形割引量は急増し、明治17年(1884年)には、日本銀行全体の手形割引枚数の約9割、金額の約6割を占めるほどになりました。
現在の大阪支店は中之島にありますが、支店開設以来、2度、移転を行っています。開設当初の店舗は敷地が小さく、金庫のための十分なスペースがないなど営業上の不便が多かったため、開設から2年後の明治17年(1884年)に、旧東区大川町(現在の三井住友銀行の場所)に移転しました。その後、経済の発展とともに支店の事務量が増えていったため、2度目の移転を行うことになりました。その結果、中之島の地が選定され、明治36年(1903年)に移転しました。現在の旧館は、その時に建築されたものです。日本銀行本店の旧館と同様、明治を代表する建築家である辰野金吾の設計によるものです。現店舗のある地は、江戸時代には水戸藩や島原藩などの蔵屋敷があった場所であり、明治に入り郵便役所(現在の郵便局)となったあと、大阪商工会議所や大阪証券取引所を設立したことで知られる五代友厚の私邸などを経て、今日に至っています。
昭和に入ってまもなく、昭和2年(1927年)3月15日に金融恐慌は始まりました。直接の原因は、大正12年(1923年)の関東大震災のときに返済が猶予された「震災手形」の処理が滞り、不良債権化したことです。震災手形を所持する銀行への信用不安は日に日に高まっていき、ついに、多数の銀行で預金の引き出しのために預金者が店頭に殺到する「取り付け騒ぎ」が生じました。続々と銀行が休業する事態となりましたが、3月21日に日本銀行が非常貸出に踏み切ったことをきっかけに、一時、恐慌は和らぎました。しかし、神戸の鈴木商店という当時の大手商社が経営困難に陥ったことから4月に入って恐慌は再燃し、関西がその中心となりました。当時、多くの人々が預金を引き出そうとした結果、現金需要が急増し、お札の印刷が間に合わなくなりました。4月22、23日の全国一斉の臨時銀行休業の間に印刷を行う必要から、日本銀行は、窮余の策として、片面が白紙の2百円券を発行しました。大阪支店からも、このいわゆる「裏白銀行券」が大量に供給されましたが、休業明けの開店時には各銀行の店頭に札束が山積みにされたことで、人々を安心させたと伝えられています。こうした措置のほか、大阪支店を含め日本銀行が多額の貸出を実行したことなどにより、恐慌は次第に鎮静化に向かっていきました。
大阪は、明治から発展してきた繊維産業や鉄道に加えて、化学や機械産業などの重化学工業が次第に興隆し、昭和の初期まで、その経済力は東京を上回るほどでした。しかし、その後、戦時経済下になると、国策として東京への集中的な資源投下が行われるようになったことから、大阪経済の地位は相対的に低下しました。加えて、戦時中は空襲などにより甚大な痛手を被り、経済は混乱しました。戦争が終わると、大阪経済は再び活気を取り戻します。昭和25年(1950年)に起きた朝鮮戦争は大規模の特需をもたらし、大阪は経済的なプレゼンスを回復していきました。大阪支店も成長資金の供給を通じ、経済発展を金融面から後押ししました。高度成長期の昭和45年(1970年)には、大阪・千里で万国博覧会が盛大に開催されました。しかしこの頃から、大阪経済の対全国シェアは徐々に低下していきました。このように、大阪経済は幕末・明治以降、今日に至るまで、幾度となく大きな変動を経験してきました。
大阪支店の店舗は、旧館の復元・改築工事と、同時に行われた新館の建築を経て、昭和57年(1982年)に現在の姿となりました。築後80年を経て老朽化が進んでいた旧館は、もともと取り壊される予定でした。しかしながら、当時の大阪市民や文化庁からの強い保存要請を受け、可能な限り面影を残す形で改築工事が行われました。御堂筋側から見える東、北、南側の外壁のほか、中央のドームとその両側に配置された三角屋根は、往時の姿をとどめています。新館の設計に際しても、屋根や窓回りには旧館と同様の銅板を用いるなど、旧館との調和が重んじられました。このほか、新館正面入り口の窓には反射ガラスを使用し、旧館のドームが美しく映えるような工夫を施しています。こうした景観維持のための取り組みが評価され、昭和58年(1983年)に「第3回大阪都市景観建築賞」を受賞しました。
平成のバブル経済の崩壊後、関西の金融界は、貸出の不良債権化という問題に直面し、多くの金融機関が経営破綻に陥ったことから、「金融の火薬庫」と呼ばれました。一部の金融機関には、「取り付け騒ぎ」が発生する事態となりました。こうした状況に対応するため、大阪支店は、日本銀行本店や関係機関と連携しつつ、管下の金融機関のきめ細かな状況把握に努めるとともに、「特融」(担保の差し入れを求めないなど特別な条件による資金の貸付)を実行するなど、金融危機の波及を防ぎ、金融システムの安定を維持することに全力を注ぎました。この時期、破綻を免れた金融機関の間でも、経営体力を強化するなどの目的での再編・統合が相次ぎました。その結果、大阪支店管下の大阪府、奈良県、和歌山県に本店を持つ金融機関数は、バブル崩壊前の平成初期には49行庫(大手銀行4、地域銀行14、信用金庫31、平成2年〈1990年〉4月)ありましたが、今日では17行庫(大手銀行1、地域銀行4、信用金庫12、令和5年〈2023年〉12月)へ大幅に減少しました。
地震などの大きな災害が生じても、日本銀行は、お札の発行や資金の決済など中央銀行の役割を絶え間なく、しっかりと果たさなくてはなりません。平成7年(1995年)、阪神・淡路大震災が起き、兵庫県を中心に甚大な被害が生じました。大阪支店は、西日本における日本銀行の主要店であると同時に近隣店として、神戸支店への人的および物的支援を行ったほか、大阪支店自身も休日の臨時営業も含めて汚れたお札の引き換え業務などに尽力し、それらを通じて地域の復旧・復興に貢献しました。平成8年(1996年)、首都圏に大規模な災害が生じた場合に備えて、日本銀行はシステムのバックアップセンターを大阪に設けました。いざという時には、東京都府中市のシステムセンターから切り替え、大阪支店の職員が本店に代わり緊急性の高い業務を行うことを想定しています。こうした災害時への備えの重要性は、平成23年(2011年)の東日本大震災以降、一段と強く認識されるようになりました。民間の金融機関の間でも、首都圏が被災した場合の大阪拠点の機能を拡充する動きが広まっています。災害時の拠点として、大阪はわが国の金融経済において一層重要な役割を担うようになっています。
大阪支店は、ご紹介したような幾多の歴史的なイベントを経験しながら、中央銀行としての役割を果たすことで、大阪、関西経済の発展に努めてきました。また、近年では、災害時の拠点としての新たな役割も担うようになっています。これからも、更なる貢献を果たしていけるよう、皆様とともに歩みを続けていきたいと考えています。引き続きどうぞ宜しくお願い申し上げます。