野口英世記念館提供
2004年(平成16年)に発行された千円札の肖像には福島県猪苗代町出身の野口英世が採用されました。
英世は1歳半の時にいろりに落ちて大火傷した左手の手術がきっかけで医師になる決意を固め、高等小学校を卒業した後、左手の手術を受けた会津若松の会陽医院に薬局生として入門しました。英世は医学のほか、英語・ドイツ語・フランス語の勉強をしましたが、並外れた集中力を発揮し、1つの言語の原書を3ヶ月で読めるようになったそうです。
上京し晴れて医術開業試験に合格した英世ですが、左手が不自由であったことから医師になってからは触診に苦労しました。また、医学を更に極めてみたいという向学心から、一般の開業医ではなく、研究者として身を立てる決意を固めました。1898年(明治31年)4月には私立伝染病研究所で北里柴三郎の助手を務めています。その後英世は柴三郎の書いた紹介状を携え渡米し、ペンシルベニア大学、デンマーク国立血清研究所、ロックフェラー医学研究所で研究を続け、その功績が評価されています。晩年はアフリカで発生した黄熱病の研究のために現地に渡りましたが、研究中に自身が黄熱病にかかり、殉職しました。(2003年9月野口英世記念館・八子弥寿男館長ご講演を抜粋)
紙粘土の上に千円札の裁断片を貼り付けた作品
磐梯山と猪苗代湖を背景にした作品
頭の形が福島県の形に工夫された作品
深谷市提供
渋沢栄一は、「日本近代経済の父」などと称され、実業界、教育・社会事業、民間外交など多方面に亘って指導的役割を果たしました。
栄一は、家業の手伝いで商売を学んだ後、一橋家に仕える機会を得て、財政の改善などに手腕を発揮しました。27歳のとき、徳川昭武の欧州視察の随員に抜擢され、先進的な技術や産業、近代的な社会制度に触れたことが、栄一のその後の人生に大きな影響を与えました。帰国後、明治政府の大蔵省に出仕して新しい国づくりに関わりましたが、1873年に大蔵省を辞し、民間人として、企業の創設・育成に力を入れました。栄一が生涯に関わった企業は、約500ともいわれています。
栄一は、福島県には、常磐炭田の採掘にあたった磐城炭礦株式会社の設立、郡山から会津方面に向かう岩越鉄道(現JR磐越西線)の敷設、旧白河藩主・松平定信公を祀る南湖神社の創建をはじめ、数々の足跡を残しています。
津田塾大学津田梅子資料室提供
津田梅子は、日本における女子教育の先駆者とされています。
梅子は、1871 年、日本初の女子留学生5名のうちの一人として、岩倉使節団に随行して渡米しました。当時、梅子は僅か満6歳、留学生の中で最年少でした。
1882年に帰国して華族女学校で教授を務めた後、再びアメリカに留学、その後、再び華族女学校等で教職に従事する中で、梅子は一般女子教育に力を尽くす決意を固め、女子英学塾(現津田塾大学)を設立しました。
なお、日本初の女子留学生の5名には、会津藩の家老である山川家出身の山川捨松もおり、梅子とともに、10年以上に亘ってアメリカ留学を続けました。二人のつながりはとても深く、梅子は、女子英学塾設立にあたって、山川捨松から支援を受けています。
学校法人北里研究所
北里柴三郎記念室提供
北里柴三郎は、近代日本医学の礎を築いた微生物学者・教育者です。
1871年、柴三郎は、古城医学所兼病院(現熊本大学医学部)でオランダ人軍医マンスフェルトに学び、医学の道へ進む決意を固めました。東京医学校(現東京大学医学部)卒業後、予防医学を志し、内務省衛生局に入局しました。1886年には念願だったドイツへの公費留学を果たし、病原微生物学研究の第一人者コッホに師事しました。柴三郎は研究に没頭し、世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功、その後、破傷風血清療法を確立しました。
帰国後、柴三郎は、福沢諭吉の支援を受け、私立伝染病研究所を創立、その所長に就任します。その後も、新たな医学研究機関「私立北里研究所」の設立や慶應義塾大学医学科の創設に取り組んだほか、日本医師会などの各種団体の設立などにも関わりました。柴三郎は、感染症の撲滅を目指し、野口英世を含む多くの学者を育てました。