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公表資料・寄稿

寄稿等

「チーター」にならないために

大分に赴任してまもなく、少し大きめのテレビを買いました。届いた夜にさっそくスイッチを入れると、流れていたのは、複数国の公共放送が共同制作したドキュメンタリー番組。アフリカ某国のサバンナで、灌木の枝に潜んで獲物を待つチーターの姿を捉えた映像でした。

乱獲や環境破壊の影響で生息数が急減した野生のチーターは、いわゆる絶滅危惧種です。獲物をみつけたチーターは、樹上からしなやかに跳躍しました。サバンナを疾走する地上最速の生き物と、追われる鹿の姿が重なるまでの数秒の間に、画面の中には思いがけない一団が現れてきたのです。

それは、大型のジープやレンジローバーの群れでした。二匹の獣と一緒に動いていくカメラの視野に、禍々しい影が次々と現れ、チーターの牙にかかった哀れな獲物が動かなくなる頃には、数十台のクルマが二匹をすっかり取り囲んでしまっているのでした。

ナレーションによれば、このサバンナを訪れる観光客の増加とともに、チーターの狩りの成功率だけでなく、子供が成獣に育つ割合も有意に低下しているそうです。明らかに、野生の環境で生きる力が低下しているということでしょう。人間との接触を減らすべきという結論がただちに示唆されるところですが、問題を複雑にしているのが、「この自然保護区の維持コストは、観光業なくしては賄えない」という経済的な構造なのです。つまり、観光産業によってありのままの生活を収奪されている野生動物の生存基盤が、当の観光産業に依存してしまっている。「人間と野生動物の距離感を、考え直すときなのかも知れません」というありきたりな結びでナレーションは終わり、番組は次のチャプターに移っていきましたが、私の思考はこのエピソードから容易には離れられませんでした。

いったい、観光という産業は誰のためにあるのでしょうか。その土地に住む人々がそれを生業とし、豊かな生活を営むために決まっています。ただし、手段がいつのまにか目的となってしまうのが世の常。折しも各地でオーバーツーリズムの弊害が叫ばれるようになっている今日、あらためて、何のための観光なのか?を問うことが、切実な課題になっていると感じます。政府は年間の訪日客数の目標を掲げ、ここ大分の地でも、地元の魅力をいかに世界にアピールするか、熱っぽい議論が交わされている。それが大切なことだからこそ、議論や取り組みの根っこには、ここに住む人々の生活の、受け継がれてきた豊饒さを決して犠牲にはしない、というしっかりとした「思想」がなければならないとも思うのです。

無限の成長を希求する資本主義経済のシステム自体が、明らかに限界を迎えつつある中、私たちは「永遠に続くかと思われた成長の時期」の、その次の段階の社会を構想するという課題に直面しています。大分の観光の未来を考えるうえでも、そのような視点が大切ではないかと思っています。