昭和20年7月 | 日本銀行大分事務所開設 日本勧業銀行<現みずほ銀行>内 |
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昭和23年2月 | 日本銀行大分支店開設 開設時の当座預金取引先は、大分合同銀行(現大分銀行)ほか6行 |
昭和38年7月 | 豊和相互銀行(現豊和銀行)と当座預金取引を開始 |
昭和44年12月 | 別府信用金庫(現大分みらい信用金庫)と当座預金取引を開始 |
昭和45年10月 | 現営業所(大分市長浜町)で業務開始 |
昭和48年12月 | 大分信用金庫と当座預金取引を開始 |
昭和56年7月 | 銀行券自動鑑査機導入 |
昭和59年11月 | 新様式銀行券発行、一万円札の肖像画に福澤諭吉採用 |
昭和63年10月 | 日本銀行金融ネットワークシステム(日銀ネット)稼働開始 |
平成 3年5月 | 組織再編により3課制スタート(総務課、業務課、発券課) |
平成 10年2月 | 大分支店開設50周年 |
平成 12年8月 | 大分支店ホームページ開設 |
平成 14年7月 | 広報ルームオープン |
平成 18年4月 | 大分県金融広報委員会事務局を大分県生活環境部県民生活・男女共同参画課から移管 |
平成 28年3月 | 広報ルームリニューアル |
支店開設に尽力した木下郁・大分市長(後の大分県知事)と一萬田尚登・日銀総裁(第18代)は、第五高等学校入学から東大卒業まで同窓で親しい関係にありました。
当時、木下市長は大分市の区画整理を進めていましたが、日銀の支店があることで都市の格も上がると考え、一萬田氏が総裁に就任した後大分市への支店開設を要望し、一萬田総裁も自らの地元でもあることから前向きに検討することを約束したとされています。
その後、当時の県知事と大分銀行頭取の連名で、「日本銀行大分支店設置嘆願書」を提出しました。これがきっかけとなって誘致運動が盛り上がり、昭和23年に支店開設に至りました。地元では、その時点で山本、井上、一萬田と三代の総裁や数名の理事を輩出しており、日本銀行には親しみを持たれていたため、支店開設に際しては歓迎の気持ちがみなぎっていた、と言われています。
最初の日本銀行大分支店は、大分駅前、現在の「祝祭の広場」にありました。大分銀行が所有(占領軍が一時使用)していた「大分ビル」を日本銀行が買い上げて開設されました。 敗戦直後で経済界がまだ混沌としていた当時は、大きなビルを新築することが許されない事情があり、既存の建物を利用することになりました。
開設当時、輸送事情が非常に悪く、開設の前日になっても、支店設備の中でも特に重要な金庫の扉が届かないという事態が起こりました。 一方で現金は到着したことから、急遽厚い木で作った扉を金庫の入口にあてがい、その夜は木造の扉の前にむしろを敷いて、当時の職員が徹夜で不審番をした、との逸話も残されています。
旧店舗は、昭和30年代後半には築後50年以上が経過し老朽化していたほか、大分県経済の発展とともに銀行券の受払い規模も拡大して金庫が手狭となっていました。そこで、 昭和38年に大分市長浜町の大分商業高校跡地を購入し、昭和44年9月に新店舗の建築工事を開始しました。
同45年9月に新店舗が竣工し、同45年10月に移転、業務を開始しました。中央銀行の建物らしく、外装はタイル張り、色調はブロンズ(茶色系)を基調としています。