福沢諭吉
昭和59年から約40年に亘って発行された一万円札の肖像は、言わずと知れた大分県出身の思想家・教育者である「福沢諭吉」です。一万円の肖像画は、慶応塾史資料室に保管されている諭吉が56歳の頃の写真をもとに作成されました。
豊前中津藩士の家に生まれた諭吉は、幼少の時期を大分県の中津市で過ごしました。
一万円札の肖像は、2024年に渋沢栄一へと変更される予定ですが、福沢諭吉の教えは今も生き続けています。
実は、大分県は全国の都道府県の中でも、特に日本銀行と関わりが深いといえます。
歴代の日本銀行総裁32代のうち、4人・5代を大分県出身者が占めています。総裁経験者数(4名)は東京都と並んで全国1位であるほか、井上準之助総裁が第9代と第11代の2回総裁を務めていることから、就任回数では大分県が単独1位となります。
ここでは、大分県出身の日銀総裁の略歴や功績について、少し紹介いたします。<参考文献:大分県歴史人物事典(大分合同新聞社)など>
(第5代)山本達雄
臼杵藩士の家に生まれ、13歳で山本家の養子に入る。福沢諭吉に憧れ、3年間の教員生活を経て慶応義塾に入学し、福沢から英語を習う。その後、民間企業に就職後、35歳のとき(明治22年)に当時の総裁の要請で日銀に入行。入行後は重要なポストを歴任し入行8年後、43歳の若さで総裁に就任、日清戦争後の恐慌に対処した。総裁辞任後は政界入りし、農商務大臣などを歴任。
(第9代・11代)井上準之助
日田郡大鶴村(現・日田市)出生。生家は井上酒造という作り酒屋。東京帝国大学卒業とともに日本銀行に入行し、38歳という若さで営業局長を経験、49歳で本行初の生え抜き総裁となる。在任中は、濱口雄幸宰相とともに、金の輸出解禁や財政緊縮に心血を注ぐ。その後、貴族院議員や大日本青年連合会理事長なども務めたが、昭和7年、選挙運動中に凶弾に倒れた。墓は東京都青山墓地にあるが、郷里の日田市大鶴町の井上酒造の墓地にも分骨されている。
(第18代)一萬田尚登
野津原村(現・大分市)出生。日銀入行後は井上準之助総裁の秘書も務め、昭和21年に総裁就任。戦後の復興と経済の安定に尽力。8年半に亘り総裁を務め、当時の総裁在職期間の最長記録を更新。連合国最高司令官マッカーサー元帥とも信頼関係にあったほか、インフレ防止を最重点課題とした金融政策を展開し、日本経済の安定に多大な貢献をしていたことから行内外でも絶大な権威を持ち、「法王」とも呼ばれていた。
(第26代)三重野康
生誕地は満州。日本帰国後は旧制大分中学校に入学、元大分県知事の平松守彦氏とは同級生。バブル期の平成元年に総裁に就任し、金融引き締め策を相次いで実施するなどバブル退治を強力に推進したことから、「平成の鬼平」と称される。在任中は大分の麦焼酎を銀座や築地でPRするなど麦焼酎の普及に多大な貢献を果たしたことでも知られている。
また、第28代の速水総裁は昭和42~45年に、第30代の白川総裁は平成6~7年に、それぞれ大分支店長を務めていました。