TEL. 024-521-6363
〒960-8614 福島市本町6-24
15年(1882年) | 日本銀行設立 | |
31年(1898年) |
福島県制施行 | |
32年(1899年) | 福島出張所開設 | 日本銀行福島出張所は、明治32年7月15日、東北地方で最初の、全国では本店を除く7番目の日本銀行の店舗として開設されました。店舗は、福島一の糸問屋「万国屋」から購入したもので、二階建・土蔵造りでした。開設当初の日本銀行福島出張所 |
全国的にみても早い時期に当出張所が開設されたのは、当地が当時の重要輸出品であった生糸や米穀の有数の集散地であり、東北の金融の中心であったためです。 出張所開設当日は、「105万円の現金が運ばれてくる」ということで、駅前通りは時ならぬ緊張感がみなぎり、興奮した人垣の中を、赤い旗を立てた十数台の馬車に積まれた現金箱が、物々しい警戒のうちに出張所に運び込まれたといいます。当時、米一升が12銭でした。 |
||
40年(1907年) | 福島市制施行 | |
44年(1911年) | 福島支店昇格 | 出張所から支店に昇格。 |
2年(1913年) | 旧店舗完成 | 支店昇格を機に新店舗が大正2年に完成しました。 設計は、当時の建築業界の第一人者として、日本銀行本店や東京駅を担当した辰野金吾博士とその高弟・長野宇平治が共同で行ないました。 レンガ造りの建物は、福島市の明治洋風建築の代表の一つでした。 福島支店旧店舗 |
12年(1923年) | 関東大震災 |
2年(1927年) | 金融恐慌 | 第一次大戦後の反動恐慌や関東大震災に端を発した昭和2年の金融恐慌の嵐は福島にも押し寄せました。恐慌は、まず地元銀行預金の郵便貯金への預け替えのかたちであらわれ、地元銀行は昭和2年6月の福島商業銀行の休業を皮切りに次々と破綻に追い込まれていきました。この結果、地元銀行の数は、42行から11行にまで激減してしまいました。 |
日銀特融を実施 | 当店では、金融不安にさらされた金融機関に対して合計2億4千万円にのぼる特別融資を行なうなど、県経済を守る柱として事態の収拾に全力を注ぎ、動揺は次第に沈静化していきました。 こうした活動やこの頃から始まった支店長記者会見などを通じて、それまで一般市民に縁の薄かった当店の存在が身近になっていったようです。 |
|
17年(1942年) | 日本銀行法公布 | |
20年(1945年) | 第二次大戦終結 | 昭和20年8月、太平洋戦争が終結。翌21年には戦後のインフレ対策として預金の封鎖や新銀行券への切替を図る金融緊急措置がとられ、当店も新円切換え等に業務繁忙を極めました。 |
32年(1957年) | 日本銀行券預入令等 金融措置 |
|
県内経済の高度成長 | ||
48年(1973年) | 変動相場制への移行 | 拡大基調にあった経済は、昭和48年、第一次石油危機に襲われました。インフレ心理が極度に増幅され、物資の買いだめなどのパニック行動が生じた社会情勢に対して、公定歩合を9%に引き上げる等の強い金融引締め政策がとられました。 これ以降、わが国経済は安定成長期へと移行していきました。 |
オイル・ショック |
福島支店現店舗 |
|
公定歩合史上最高 | ||
55年(1980年) | 現店舗完成 | |
57年(1982年) | 東北新幹線開業 | |
61年(1986年) | 東北自動車道全線開通 | |
63年(1988年) | 日銀ネット稼働 |
5年(1993年) | 福島空港開港 | |
9年(1997年) | 大型金融破綻 | 平成初期にかけて生じたバブルの崩壊は、企業や金融機関に重い後遺症を残しました。 平成9年以降、金融機関や証券会社の大型破綻が相次ぎ、県内にも不安心理が高まりました。当店では預金者への影響や金融システム全体への連鎖が生じることのないよう万全の体制で臨みました。 |
10年(1998年) | 日本銀行法改正 | |
豪雨災害 | 集中豪雨が阿武隈川を襲いました。 | |
11年(1999年) | 開設100周年 | |
13年(2001年) | 公定歩合史上最低 | |
16年(2004年) | 新日本銀行券発行 | 新千円札の肖像には、福島県猪苗代町出身の「野口英世博士」の肖像画が採用されました。 |
19年(2007年) | 福島市制施行100周年 | 協賛事業として支店ロビーでパネル展を実施しました。 |
23年(2011年) | 東日本大震災 | |
支店昇格100周年 |