西部(さいぶ)支店時代(1893(明治26)年~1898(明治31)年)
日本銀行は、1882(明治15)年10月10日に開業、同年12月18日には大阪支店を開設しました。西部(さいぶ)支店は、大阪以西の金融が円滑に行われるように、大阪に次ぐ西日本で2番目の支店として設置されました。
西部支店は、広く「大阪以西金融の便を謀る」という設置目的に沿って門司におく計画だったのですが、当時の門司はまだ鉄道が開通したばかりで、市街地が形成されていなかったため、当分の間は、門司と同一経済圏を形成していた赤間関市(あかまがせきし)(現下関市)に支店をおくことになりました。
こうして西部支店は、1893(明治26)年10月1日、「赤間関市西南部町(あかまがせきし にしなべちょう)52ノ1」に開設され、翌2日から営業を開始しました。初代支店長は高橋是清(後の第7代日銀総裁、第20代内閣総理大臣)、総員14名の小世帯でした。
その後、1898(明治31)年10月30日、西部支店は当初の計画に沿って、門司港に新築された店舗に移転し、門司事務所を経て、今の北九州支店へと受け継がれております。
「西部支店設置申請書」 「西部支店設置許可書」
日本銀行金融研究所アーカイブ保管
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ミニ知識1
・西部支店があった「赤間関市西南部町52番ノ1」は土地台帳から確認した結果、現在の南部町19-7明治安田生命下関ビルの敷地内と推察されます。
・西部支店の建物は、第百十国立銀行(山口銀行の前身)の店舗(元は大きな船問屋の建物)を買い取り、改築を加えたものでした。西部支店の門司移転後は、再び第百十国立銀行が買い戻しています。 |
ミニ知識2
・高橋是清は、初代西部支店長として、下関の地で銀行家としての基盤を築いたといっても過言ではありません。高橋是清の功績を後世に残すべく、2013(平成25)年西部支店跡地に、顕彰碑が建立されました。「高橋是清翁顕彰イベント」こちらへ |
下関支店開設 旧店舗時代(1947(昭和22)年~1973(昭和48)年)
1945(昭和20)年8月の終戦直後から、我が国の経済は今まで経験したことのないようなインフレーションに突入し、これを反映して日本銀行の事務量は大幅に増加しました。日本銀行では業務を円滑に行うために全国への支店網の整備を急ぎ検討し、1947(昭和22)年12月1日、山口県の金融経済の中心地である下関市に改めて下関支店を設置しました。
1947(昭和22)年12月1日下関支店は、戦災にあった旧下関税務署庁舎の建物に増改築を施し、現在地に開設しました。 岩瀬支店長以下職員総数78名、中古のベビーフォード、トラック、リヤカー各1台、これが戦後の焼け跡の中に誕生した下関支店の構成でした。
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「下関支店開設当初の写真」 |
「下関支店開設を伝える当時の新聞記事」 |
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「営業場ロビーの様子」 |
「執務風景(1955(昭和30年))当時」 |
営業所改築 仮店舗時代(1973(昭和48)年~1975(昭和50)年)
これまで使用していた店舗が老朽化したため、1973(昭和48)年9月に店舗を建替えることが決まりました。工事中の1年5か月は観音崎町の現やまぎん史料館(旧三井銀行下関支店)を仮店舗として営業を続けました。
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「仮店舗(現やまぎん史料館)」 |
現在(1975(昭和50)年~)
1975(昭和50)年1月に鉄筋コンクリート造りの現在の店舗が完成、今日に至っています。
当地に下関支店が設置されて半世紀以上、その間の業績面での推移をみますと、まず銀行券の受払高は、1948(昭和23)年の94億円から現在(2014(平成26)年)は7,260億円と、約77倍に増加しています。これに象徴されるように、お金の円滑な供給や金融機関間の資金決済、政府の銀行としての事務などの仕事は年々増大してきました。
当店ではこうした事務量の増大に対し、銀行券自動鑑査機の設置や、日銀ネットによる資金決済の対外オンライン化など、取引先金融機関や官庁のご協力を得ながら機械化・効率化を進めており、現在では、40名程度の職員で支店業務を運営しております。
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