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北里柴三郎博士と日本銀行のつながり

北里柴三郎博士と日本銀行のつながり

北里柴三郎博士の写真
北里柴三郎
破傷風を予防・治療する方法を開発した
細菌学者で、「近代日本医学の父」と
呼ばれている。
(出所)国立印刷局

2024年7月に発行が開始された千円券の肖像には、熊本県阿蘇郡小国町出身の北里柴三郎博士が採用されました。

以下では、柴三郎と日本銀行のつながりについて、ご紹介します。

このページの作成にあたっては、北里柴三郎記念館の北里英郎館長にご協力いただきました。

日本銀行総裁の娘と結婚

松尾とらの写真
松尾乕
日本銀行第6代総裁である松尾臣善の娘。
1883年4月に柴三郎と結婚。
(提供)学校法人北里研究所北里柴三郎
記念博物館

柴三郎は、1883年、30歳で東京医学校(のちの東京大学医学部)を卒業後、内務省に入省。同年、学生時代に出会った、日本銀行第6代総裁・松尾臣善(しげよし)の娘、乕(とら)と結婚しました。

松尾家の家訓は、「白湯のごとく」。熱くもなく、冷たくもない白湯のように、夫である柴三郎を支えたそうです。

なお、1916年に北里文庫の落成式を行った際に夫婦が植えた杉が今でも残っていますが、北里館長によると、「乕が植えた杉の方が太く育っている」とのことです。

旧一万円券の肖像「福沢諭吉」は恩人

福沢諭吉の写真
福沢諭吉
文明開化の動乱期に日本の近代化に尽力
した啓蒙思想家。
(出所)国立国会図書館「近代日本人の
肖像」

柴三郎は、ドイツ留学中、細菌学の父と言われたローベルト・コッホに師事し、寝食を忘れて研究に没頭。ついに1889年、破傷風菌の純粋培養に成功したほか、翌年には世界初の血清療法を確立しました。その後、海外から招聘されましたが、「日本人の命の杖でありたい」との思いから、祖国日本への恩返しを果たすべく帰国しました。

ところが、様々な障壁により帰国後の柴三郎には研究の場すら与えられませんでした。こうした中、旧一万円券の肖像で、慶應義塾大学の創設者である福沢諭吉は、柴三郎が無為に過ごしているのを知り、東京・芝に研究室を用意し研究費も負担。実業家・森村市左衛門の援助を受けて、柴三郎が初代所長となる「伝染病研究所」を開設しました。反対運動を鎮静化するために、息子の捨次郎を隣に住まわせたそうです。

柴三郎は、こうした福澤諭吉の恩に報いるため、1920年の慶応義塾大学医学部開設にあたって、医学部長・病院長を引き受けましたが、8年間無給でその任にあたったそうです。

渋沢栄一の写真
渋沢栄一
生涯において500もの企業設立などに関わ
り「日本近代社会の創造者」と言われる。
(出所)国立印刷局

柴三郎は、一万円券の肖像、渋沢栄一とも交流がありました。例えば、1911年に設立された済生会では、渋沢栄一が理事、柴三郎は医務主管等に就任しています。また、1913年には、結核の予防と撲滅を目的とした日本結核予防協会をともに設立し、柴三郎が会長、渋沢栄一が評議員を務めました

北里館長は、上記3人の共通点を「欧米に渡航し、得意の語学力を生かして西洋文化を咀嚼したのちに、広い視野から日本の将来を考えた」と評されています。

千円券発行開始にあたって

千円札の写真
「AA000005AA」の千円券
(出所)北里柴三郎記念館

2024年7月、日本銀行では、新しい日本銀行券の広報の一環として、一般への公開を前提に、若い記番号の新様式銀行券を肖像等に関係の深い地方公共団体等に贈呈しました。柴三郎の出身地・熊本県阿蘇郡小国町には、「AA000005AA」の千円券が贈呈され、北里柴三郎記念館にて展示されています

日本銀行熊本支店の広報面での取り組み

日本銀行熊本支店では、北里柴三郎博士が千円券の肖像に採用されたことを機に、柴三郎のお札に関する広報の強化に取り組んでおり、見学展示物として千円券の顔出しパネルを設置しているほか、柴三郎のイラスト入りの模擬券や記念スタンプも用意しています。支店見学をご希望される方は、店内見学のページからお申し込みください。

顔出しパネル
顔出しパネル
見学記念の顔出しパネルです。
柴三郎と並んであなたもお札の肖像に!?

柴三郎のイラスト入りの模擬券
模擬券
柴三郎のイラスト入りの模擬券です。
お札の数え方体験で使用しています。

柴三郎のイラスト入りの見学記念のスタンプ
スタンプ
柴三郎のイラスト入りの見学記念のスタンプです。