開設当時の営業所
新潟支店は、1914年(大正3年)7月1日、日本銀行10番目の支店として開設されました。大正に入り、米穀価格の高騰と、米の売り惜しみ、金融の逼迫等が悪循環となり、米騒動へと波及しました。日本銀行としても、米価安定を金融面からサポートする意味で、米どころ新潟に支店を開設しました。
開設後、直ちに新潟市内の四倉庫会社が発行する倉庫証券を担保に手形割引を実施し、米穀金融円滑化の道を開きました。それまで地元の銀行では、行員が毎月東京まで出張して現金を受け取り、新潟へ持ち帰っていたので、当店の開設は地方金融に大きく貢献しました(当時は、新潟から東京まで汽車で片道19時間かかりました)。開設当時は、支店長以下26名の職員が勤務していました。
1955年(昭和30年)10月には、市内商店街を中心に、972戸の家屋を焼失する新潟市大火が発生しましたが、新潟支店は、職員の防火努力により類焼を免れました。その後、1960年(同35年)6月に、営業所を現在地(旧県立図書館跡)である新潟市中央区寄居町へ新築移転しました。1964年(同39年)6月、全壊3,019戸、半壊9,799戸の被害を記録した新潟地震(震度5<マグニチュード7.5>)が発生しました。この時もまた、職員の努力と近隣店等の支援により、平常通りに営業を継続することができました。
お金の円滑な供給や取引先金融機関との決済、政府の銀行としての事務などにかかる仕事は、年々増大してきました。新潟支店では、こうした事務量の増大に対し、取引先金融機関や官公庁の協力を得ながら機械化・効率化を進めるとともに、1978年(昭和53年)には営業所新館を増築しました。
台風や地震などによる災害では、被災された方々が預金通帳や印鑑を無くしてしまい、生活に必要な「現金」を引き出せなくなることもあり得ます。
大規模災害時には、被災された方々の不便を少しでも少なくするために、新潟支店では、関東財務局新潟財務事務所と共同で、被災された方々が預金通帳等を紛失した場合でも預金者であることを確認して払戻しに応じることなど、金融上の措置を適切に講じるよう各金融機関や証券会社、生命保険会社、損害保険会社等に要請しています。
新潟県内で発生した災害に対する当店での対応について、その一部をご紹介します。
発生後15日間に約43,000枚の損傷したお札が持ち込まれました。
この時の記録には「水浸券(水浸しになったお札)の乾燥方法は、一度新聞紙上に並べ水分を吸収したうえで写真乾燥機にかける取扱いが能率的である。水浸券は一枚づつの剥脱と配列に非常に手数を要し‥(中略)‥特に消毒に注意を払い、クレゾール噴霧器による(お札の)消毒を行った。」と書かれてあり、当時の職員の健闘ぶりがうかがえます。
新潟県の中越地域を中心に発生した集中豪雨(いわゆる7.13水害)により、県内では、約14,000世帯の家屋に被害を及ぼす大災害となりました。新潟支店には、水害発生から約4か月間で、約188,700枚の損傷したお札が持ち込まれました。
それぞれの地震によって、県民の方々の生活はもとより、県内の経済活動にも甚大な被害をもたらしました。新潟支店では、損傷した現金の引換え対応や、金融機関の被災状況の確認などを行いました。また、地震による県内経済に与える影響について継続的に調査を行い、その結果を記者会見や新潟支店ホームページを通じて公表しました。
新潟県の糸魚川市で発生した大規模な火災により、約40,000平方メートルが消失し、焼損棟数は147棟に上りました。新潟支店では、金融機関の被災状況や預金の払い戻し状況等の確認のほか、損傷した現金の引換えなど、様々な対応を行いました。