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原爆関連資料

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原爆投下と日本銀行

1.原爆投下時のヒロシマ

昭和20年8月6日(月)の朝は、 前日来の晴天でした。市内各所では、建物の強制疎開作業が義勇隊や動員学徒等大勢の手ですすめられていました。また官庁や会社、軍需工場などへ出勤する多くの人達で市の中心部は活気づいていました。
午前7時9分、敵機B29、4機が市の上空に侵入したため、警戒警報が発令されましたが、間もなく退去したため、31分には警報は解除されました。その頃、午前中の敵機の偵察は毎日のことであり、多くの市民はそれを「B29の定期便」と呼んでいましたが、今朝は何事もなく済んだため、ほっと一息つき再び活動を開始しました。

旧中国新聞社屋上から 林重男氏撮影:広島平和記念資料館提供

午前8時15分、 強烈な閃光が一瞬空を裂き、大轟音が天地にとどろきました。同時に濛々たる爆煙が天空めがけて立ち昇り、見る間に地
上約9000メートル、直径約5000メートルの巨大な「キノコ雲」となって真夏の太陽を遮り、市の全域は一時暗黒に包まれました。強烈な熱線の照射と爆風の衝撃をうけて、市の中心部では殆どの家屋や建造物などが破壊され、死者負傷者が続出、続いて各所から火災が発生し、たちまち猛火となりました。ただ一発の原子爆弾が全市面積の6割を破壊、4割を焼き尽くし、無辜の市民14万余りが犠牲となりました。広島は都市の機能を完全に破壊され、荒涼たる廃墟の街となりました。

2.原爆投下時の日本銀行広島支店

(1)広島支店の被災状況

広島支店は、爆心地から南東わずか380メートルの近距離にあったため、猛烈な熱線の照射と爆風の衝撃により営業所建物は甚大な被害をうけましたが、堅牢な構造であったため倒壊は免がれました。3階と2階の一部に火災が発生し内部が焼失しましたが大事には至りませんでした。その他の1階事務室や地下金庫等は、奇跡的に火災を免れました。
一方、殆どの職員(実働者85名)が店内ならびに出勤途上や自宅等で被爆しました。脅威的な破壊力と殺傷力をもつ原爆の不意打ちであったために、被害は激甚をきわめ、死亡者は37名、負傷者は15名にのぼり、本行戦災史上未曾有の惨禍となりました。

日本銀行広島支店 撮影:川本俊雄氏 提供:川本祥雄氏


(2)建物の被害

営業所(昭和11年8月竣工)は、鉄骨鉄筋コンクリート造り石積みの市内で最も堅牢な建物の一つでした(その故をもって、広島財務局の首脳部と一部職員が5月頃から支店内に疎開していました)が、6月中旬、吉川支店長は着任後直ちに防備の強化に努め、(1) 屋上中央の明かりとりガラス屋根を5寸角の材木で遮蔽する、(2) 屋上露台に3尺の土盛りを行うなどの工事が実施されていました。また、被爆前日の8月5日(日)の午後には、営業所の北隣りにあった三和信託広島支店の建物(木造モルタル塗り2階建て)を取り壊して焼却防火用地を造りました。
被爆と同時に、営業所の門扉、窓枠、シャッター、ガラス戸等は爆風によりすべて吹き飛ばされ、屋上中央部のガラス屋根は、シャッター覆いとともに飴のように曲がり大破しましたが、建物本体の構造に異状はなく、天井は落ちませんでした。
地下室では、金庫前廊下入口の鉄格子が吹き飛ばされましたが、金庫、倉庫は無事でした。鉄格子が吹き飛ばされたのは、エレベーターを軍事供出したあとの昇降路から爆風が吹き込んだためとみられます。
営業所内部は、窓ガラス、シャッター、回廊の手摺り、カウンタースクリーン等の破片が散乱し、机、椅子、戸棚等の什器は殆ど破損、転覆し、所々に負傷者の鮮血がまみれ、惨憺たる光景を呈していました。
また 全市停電したため、電灯はつかず、電話は不通、ガス、水道も使用不能となりましたが、その中でただ1か所、通用門脇の消火栓から水が勢いよく出たといいます。
営業所3階と2階の支店長寝室で火災が発生し、3階は内部を全焼、2階支店長寝室の火は大事に至らぬうちに消し止められました。その他の営業所1階と2階及び地下室は奇跡的に火災を免れました。

8月7日付の本店への被爆の第一報<日本銀行本店金融研究所所蔵>

右ページの1行目に「広島支店爆弾により半壊、金庫無事」、左ページの1行目に「市中金融機関全滅」とあります。

日本銀行広島支店の内部 米軍撮影:広島平和記念資料館提供

被爆後、屋上の盛り土を確認する米兵 米軍撮影:広島平和記念資料館提供

3.8月8日の営業再開

このように営業所は大きな被害を受けましたが、広島支店は原爆投下2日後の8月8日(水)に営業を再開しました。また、営業所内の窓口を民間銀行等に間貸しし、8日10時半から10行余りの民間銀行等が預金の払出業務を再開しました。預金の払い出しに必要な資金は日銀が民間銀行等に貸し付けました。
多くの預金者は被爆により預金通帳や印鑑を失っている下で、民間銀行等は無通帳・無印鑑の顧客にも臨機応変に払い出しに応じましたが、預金者からの不正な引き出しはほとんどなかったと伝えられています。こうして現金の供給・流通が早期に回復したことは、焦土の下で経済活動を再開させるうえでの一助になりました。
このような対応が可能であった要因を改めて振り返ると、まず、金庫が無事であったため預金者に払い出す現金が十分に準備できたことが挙げられます。また、吉川支店長が重傷を負いながらも現場で職員を督励しつつ中央銀行として異例の措置に踏み切ったことや、民間銀行等が非常時において柔軟な対応をとったことも重要な点です。

4.戦後復興

太平洋戦争が終結した8月15日時点では、店舗内外はまだ応急的に破損物を取り片づけただけで、いわば廃屋での営業でした。しかも男子職員の殆どが負傷療養中で、店内に寝泊まりしながら勤務するという異常な事態でした。したがって支店復興の第1の課題は、吉川支店長以下15名の被災職員の配置転換を早急に実施し、治療等に努めさせることでした。8月20日に高山営業課長と木塚文書課長の転勤が発令されたのをはじめとして、その後逐次異動が行なわれ、翌年3月までに12名の転勤が実現しました。一方、同期間中に転入した職員は復員者等を含め30数名に達したため、各課とも執務体制が整い、復興への歩みは本格的に軌道に乗ることとなりました。

業務面では、8月6日以降停止されていた手形交換は、市中の復興気運が高まりをみせる中で10月1日に再開されました。また、営業所の窓口を間借りしていた民間銀行等は逐次自店焼跡などに応急店舗の建設にとりかかり、早いものは8月末から9月頃、遅いものは翌21年春頃にはそれぞれ復帰しました。なお、広島支店の三次分室は戦時疎開の役割を終え、20年11月30日に閉鎖されました。
第2の課題は営業所設備建物等の復旧でしたが、応急的にガラス天井の修理、電気(9月中旬)、水道、電話(21年初)等の復旧が逐次実施され、工事は21年4月末に一応完了しました。次いで同年5月から本格的な復旧工事に着手し、天井ガラス張り、窓枠、鉄格子の取り付け、壁塗装工事等が完了したのは同年11月でした。

改修中の支店外観

足場が組まれており、工事前期の様子。施工は清水組(現在の清水建設)。

改修中の支店内部

急ピッチの工事の中 、職員は勤務に精励していました。

5.おわりに

昭和20年8月6日、広島は人類始まって以来、初の原爆の試練を受けました。 爆心直下の日本銀行広島支店もその強烈な破壊力にさらされました。 職員の殆どは傷つき、その半数が尊い犠牲者として再び帰らぬ人となりました。
昭和41年8月には、原爆の犠牲となられた当店職員の冥福を祈念するため、慰霊碑が建立されました。慰霊碑はその後、基町の現営業所に移設され、毎年8月には支店長ほか支店職員による慰霊式が催されています。
在籍職員一同、広島の原爆犠牲者のすべての方々、日本銀行広島支店関係原爆殉職者42の御霊のご冥福を心からお祈り申し上げます。

日本銀行広島支店 撮影:川本俊雄氏 提供:川本祥雄氏

旧営業所から現営業所内に
移設された慰霊碑

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