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長州藩の武器購入額92,400両

龍馬が討幕のために薩長同盟の成立を仲立ちしたことは有名ですが、犬猿の仲といわれた薩摩、長州両藩の手を結ばせるため重要な役回りを果たしたのが、龍馬率いる亀山社中による、経済面での連携でした。

当時、長州藩は幕府との決戦に備え、西洋式武器を増強する必要がありましたが、幕府による厳しい監視が続いており、表立って長崎で取引をすることはできませんでした。龍馬はこの点に目をつけ、1865年5月(龍馬31歳)、薩摩藩名義で長州藩の軍艦や武器を購入する一方、兵糧米が不足していた薩摩藩に長州藩が米を提供するという和解案を長州藩に提案しました。

長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)がこの提案を受け入れたため、同年6月29日、龍馬と中岡慎太郎は京都薩摩藩邸にて、武器購入のための薩摩藩名義の借用を西郷隆盛に申し入れました。西郷がこれを了承したため、龍馬は亀山社中に対して武器購入のサポートを指示しました。これを受け、長州藩から派遣された伊藤俊輔(後の伊藤博文)らが、8月、亀山社中の高松太郎の紹介でイギリス商人グラバーから、ミニエー銃(当時最新式のもの)4300丁、ゲベール銃3000丁を9万2千4百両で買い付けました。銃はその後、薩摩藩小松帯刀の指示のもと、薩摩藩船で下関へ運ばれ、長州藩の手に渡りました。

一方、龍馬は山口を訪れ、西郷から依頼された兵糧米の調達を長州藩に要請し、5百俵を用意してもらうことに成功しました(結局、薩摩藩は受け取らず、亀山社中が受領したといわれています)。このように龍馬は両藩に横たわる感情面のしこりを、経済面での連携も利用して取り払い、翌年(1866年)1月に実現した薩長同盟を手繰り寄せたのです。

なお、亀山社中は1865年5月頃、神戸海軍塾の同志が、薩摩藩と長崎の豪商小曽根乾堂の力添えにより設立した組織です。龍馬はこの社中を物資の輸送などで利益を得る商社として、運営することを目指していました。また、スポンサーである薩摩藩からは一人当たり3両2分の給与が支給されていました。

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長州藩の武器購入額 169億円

     亀山社中の給料    60万円

  
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