にちぎんと佐賀県のつながり
ここでは、佐賀県出身で日本銀行と関わりがある方々について少しご紹介します。
(参考文献:日本銀行貨幣博物館、佐賀県人名辞典など)
現在のお金の単位を決めた「大隈重信」
日本銀行が発行するお札(日本銀行券)の単位は「円」ですが、これは明治4(1871)年に定められた「新貨条例」が始まりです。この条例の制定で主導的な役割を果たしたのが、佐賀市出身の「大隈重信」でした。当時は、明治政府の役人として金融・財政に関する仕事を担当していました。
大隈が新しいお金の単位を「円」にした理由には諸説ありますが、極端な筆不精であった大隈が記録を残していないため、本当の理由は不明です。
その後、大隈は政治家に転身し、総理大臣や外務大臣を歴任しました。佐賀市内には、保存された生家とともに「大隈重信記念館」が開設されています。
日本銀行本店本館の設計者「辰野金吾」
明治29(1896)年完成の日本銀行本店本館は、国の重要文化財に指定されていますが、その設計者は唐津市出身の建築家「辰野金吾」です。辰野は、工部省工学寮(現在の東京大学工学部)で建築学を学び、明治を代表する建築家となりました。本館の設計・建築の際には、同郷の建築家 岡田時太郎の協力もあったようです。
辰野は、その後、日本銀行の支店(大阪・京都・小樽など9店舗)や東京駅などの設計も手掛けています。その東京駅は、令和6(2024)年発行予定の新しい一万円札のデザイン(裏面)に採用されました。県内には、辰野が設計した「武雄温泉楼門・新館」(武雄市)のほか、彼が監修した「旧唐津銀行(辰野金吾記念館)」(唐津市)が残っています。
第7代日本銀行総裁「高橋是清」と佐賀県との縁
佐賀県出身の日本銀行総裁はいませんが、佐賀県に縁の深い人として、第7代総裁「高橋是清」(東京都出身、任期:明治44<1911>年~大正2<1913>年)がいます。
高橋は、波乱万丈な人生を送っていますが、明治4(1871)年から1年3か月にわたり、唐津市にあった英語学校「耐恒寮」で教師をしていました。その教え子からは、辰野金吾(建築家)、曽禰達蔵(同)、天野為之(経済学者)など、明治期に様々な分野で活躍した人材を輩出しています。
その後、高橋は、ペルー銀山の経営に乗り出すものの失敗。再起をかけて、日本銀行本店本館の建築事務主任の職につきました。その仕事振りが認められたことで、その後の活躍が始まりますが、その設計者が唐津時代の教え子の辰野金吾であったというのも、佐賀県との縁を感じます。
日本銀行で活躍した佐賀県人
日本銀行で活躍した佐賀県人としては、No.2の「副総裁」になった「水町袈裟六(けさろく)」(佐賀市出身)がいます。大蔵省(現財務省)退官後の明治44(1911)年から大正8(1919)年にかけて副総裁を務めました。任期中には、横浜正金銀行(現三菱UFJ銀行)の頭取を兼務したほか、退任後は、会計検査院長も務めるなど、大正期の金融財政の専門家として活躍しました。
また、日本銀行の職員として世界で活躍した「田中鉄三郎」は鹿島市出身です。得意の英語力を活かして、昭和4(1929)年には、中央銀行間の協力推進などを目的とする国際決済銀行(スイス)の創立委員として活躍し、同行の理事や国際連盟の財政委員会委員などを務め、国際金融のプロとして活躍しました。