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公表資料

第6回 銀行淘汰の始まり

日露戦争を過ぎた頃から、日本経済は深刻な不況時代に入ります。第一次世界大戦の特需で盛り返した時期もありましたが、その後も関東大震災、金融恐慌、世界恐慌が相次いで発生する中、大企業の倒産も相次ぐなど、国内景気は長期にわたり低迷を続けました。

こうした不況の中、銀行界でも、中小銀行の取り付け騒ぎや臨時休業が多発しました。そのため、政府は、銀行業の再編に着手し、銀行同士の合併を推進します。日中開戦の前年の昭和11(1936)年には「1県1行主義」も打ち出されました。この結果、ピーク時の明治34(1901)年には2,308行あった銀行数は、太平洋戦争勃発前の昭和15(1940)年には286行まで減少しました。

佐賀県でも、第一次世界大戦の好況が終わると、景気は悪化に転じ、大手から中小まで数多くの企業が経営悪化・倒産しました。大手の九州製粉(後の日清製粉鳥栖工場)や佐賀紡績(後の大和紡績佐賀工場)、佐賀セメント(後の豊国セメント佐賀工場)が県外資本に買収されたほか、県内名門の谷口鉄工場や深川造船所が経営破綻、また石炭需要の低迷による炭鉱の閉鎖も相次ぎました。

県内の銀行でも、大正15(1926)年に大手の古賀銀行や神埼実業銀行で取付け騒ぎが起きるなど、経営は厳しさを増し、合併・吸収が相次ぎました。銀行数は、ピークの大正10(1921)年の38行から昭和15年には11行まで減少しました。