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1863年5月(龍馬29歳)、幕府軍艦奉行並勝海舟は、神戸(生田神社馬場先海岸東寄り)に幕府の海軍の人材育成を行う海軍操練所を開設することを将軍家茂への直談判により許可されました。資金3千両も幕府から出資されましたが、これに先立ち、私塾を開くことも許されました。これが操練所の前身となる神戸海軍塾です。 海舟は塾の資金調達のため龍馬を越前(福井)へ派遣、以前から親交のあった越前福井藩主松平春嶽から5千両を借りることに成功しました。 その後、1864年5月に幕府は海軍操練所を開設、幕臣の子弟たちは操練所の寄宿舎で、龍馬ら旧塾生と諸藩出身者は海軍塾に居住し、練習に励みました。 ところが、同年6月に起きた“池田屋事件”と7月にあった“禁門の変”に海軍塾生が加わっていたことから海軍操練所は“激徒の巣”と幕府から疑いをかけられ、勝海舟は10月に帰国命令が出されて軍艦奉行を免職、翌年3月には創設から1年も立たないうちに海軍操練所も正式に廃止されました。 海軍操練所は廃止されましたが、龍馬にとっては海軍塾で学んだことや人との出会い(後に龍馬の腹心となる陸奥宗光<後の外務大臣>など)が、将来の亀山社中・海援隊へと繋がっていきます。 |
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