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いろは丸賠償金83,526両

“いろは丸”は龍馬などの口利きにより、1866年、伊予大洲藩がオランダ商人ボードウィンから42千両で購入した160tの蒸気船です。「いろは丸」という名称は龍馬の命名です。1867年4月19日(龍馬33歳)、海援隊は15日につき500両という契約で船を借り、龍馬以下、主な海援隊士が乗り組み、諸藩に売るための商品を積み、長崎を出港して大阪方面を目指しました。

長崎を出港したいろは丸は、馬関海峡を経て瀬戸内海に入り、讃岐国箱ノ岬と六島との間を東の方向に航行していましたが、23日の午後11時頃、瀬戸内海を逆方向に航行中の明光丸(紀州和歌山藩が1864年にイギリス商人グラバーから購入した887tの大型蒸気船)と衝突しました。“いろは丸”はもともと重量が明光丸の6分の1しかありません。明光丸が一旦、後退した後、操作を誤って再度、衝突したこともあって船は大破、乗組員全員が明光丸に乗り移った後、備中・宇治島沖に積み荷と共に沈みました。

龍馬ほか乗組員は鞆ノ津(現広島県福山市)に上陸し、その後は紀州和歌山藩、五十五万石を相手に賠償交渉を行いましたが、鞆ノ津では決着が付かず、舞台は長崎に移りました。海援隊は龍馬ほか幹部が対応、当時の国際法である「万国公法」を準用しつつ、航海日誌や海路図などから双方の責任について議論を交わしました。当初は海援隊と紀州藩との談判でしたが途中から土佐藩の幹部(参政)後藤象二郎が加わり、土佐藩と紀州藩という藩同士の事件となりました。その後、薩摩藩の五代才助のサポートもあり、後藤象二郎と紀州藩勘定奉行・茂田一次郎との6月の会談で、83,526両という巨額の賠償金の支払いに茂田が同意しました(再交渉ののち減額されて70,000両)。

土佐藩の後ろ盾があったとはいえ、浪人結社である海援隊が御三家の一つである紀州和歌山藩を相手に交渉を行うことに、妻おりょうのことを盟友である長州藩士三好慎蔵に託すなど、龍馬は死を決していたといわれています。

なお、賠償金交渉で海援隊は、最新式の銃400丁を船に積載していたと主張しましたが、近年4回にわたって実施された“推定いろは丸”の水中考古学調査ではみつかっていません。

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